第76話 職人街の親方
ソートン通りに店をかまえる活版屋の親方。その人に会うことはもうないだろうと、ぼくは勝手に思い込んでいた。だけど、それはどうやら虫のいい願望でしかなかったらしい。
まあ、ちょっと考えればわかることだ。いかに王都広しといえど、同じ街に住んでいる者同士、どこかでばったり行き会うこともあるだろう。ちょうど、あの冬の日の午後のように。
「おまえ、あんときの……」
とっさに駆け出そうとしたぼくの腕を、親方はむんずとつかんで引きもどした。
「どこ行くんだ」
ぼくの顔をのぞきこむ親方は、初めて会ったときほどではないが、やっぱり酒臭く、ぼくは嫌悪感に身をよじった。そのまま親方の手をふりほどいてやりたかったのだが、腕に食い込む指の力は思いのほか強く、ぼくを捕らえて離さなかった。
「おいこら、暴れるんじゃねえ」
揉み合うぼくらに、道行く人々が不審げな視線を投げかける。こうなったら叫んでやると、ぼくが息を吸いこんだとき、通行人の一人が声をかけてきた。
「ロブソンじゃないか。何やってんだ、おまえ」
のっそりした足取りで近づいてきたのは、ロブソン親方と似たような身なりの男の人だった。背が高く、痩せぎすで、血色の悪い顔を黒ずんだ襟巻に埋めている。
助かったと思ったのは、どうやらぼくの早とちりだったらしい。その人は特に何をするでもなく、上着のポケットに両手を突っ込んだまま、ぼくをじろじろと眺めまわした。
「その坊主に財布でも掏られたか?」
「ちげえよ、馬鹿」
ロブソン親方は道端に唾を吐いた。
「そこまでおれは間抜けじゃねえ。そうじゃなくて、あの小僧だよ。あの孤児院あがりの……」
「ああ」
襟巻の男は思い出したようにうなずいた。
「あんときは災難だったな、おまえ。わざわざ停車場まで迎えに行ってやったのに」
え、とぼくは思わず声をもらし、ロブソン親方を見上げた。赤ら顔の親方は、不機嫌そうに「うるせえよ」とつぶやいた。
「迎えに……ぼくを」
「そうだぜ、坊主」
親方より早く、襟巻の男が応じた。
「おまえ、何があったか知らんが、ちゃんとそいつに謝っとけよ。そいつはなあ、久々に弟子をとるってんで、ずいぶん前からおまえのためにいろいろ準備してやってたんだぜ。あの日だって、忙しいなか迎えに行ってやったってのに、おまえときたら一人でふらふらどっかに行っちまいやがって。おかげでそいつはえらく心配して、誘拐じゃないかって駐在にまで……」
「うるせえっつってんだろ」
派手な舌打ちをもらし、親方は犬でも追い払うように襟巻の男に手を振った。
「おまえにゃ関係ねえだろうが。おまえこそ、さっさとどっかに行っちまいな」
「おお怖」
襟巻の男は首をすくめ、じゃ、とぶっきらぼうに告げて歩き去っていった。往来に残されたぼくは、ぼんやりとロブソン親方を仰ぎ見た。
「……ロブソンさん」
襟巻の男が言っていたことが本当なら、あの日、ぼくが初めて王都の土を踏んだあの春の日に、ロブソン親方は停車場まで足を運んでくれていたのだ。孤児院を出たばかりの、王都にはてんで不案内な田舎者のために。
「すみませんでした」
口にしてから、違うと気づいた。ぼくのためにあれこれ心を砕いてくれたであろうこの人には、謝るだけでは足りないのだと。
「ありがとうございます。その……いろいろと」
ロブソン親方はふんと鼻を鳴らして横を向いた。
「別にどうってことねえよ。親方なら当然だ」
ぼくは、と。目が覚めるような思いで、ぼくは親方のしかめっ面を見上げていた。
ぼくは、ちゃんと見ていただろうか。今までちゃんと、この人が見えていただろうか。この人だけじゃない。ぼくを育ててくれた祖母を、孤児院長を、村の人々を。皆の顔を、表情を、ぼくに向けてくれた感情を、ぼくはきちんと受け止めていただろうか。視界に映る「色」に惑わされず、目をそらさず正面から。
いつの間にか、ぼくの腕は自由になっていた。だけど、ぼくにもう逃げる気はなかった。もうこの人から逃げる必要はないのだと、ぼくにはわかっていたのだから。




