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黄昏の幻術師  作者: いろは
第七章
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第76話 職人街の親方

 ソートン通りに店をかまえる活版屋の親方。その人に会うことはもうないだろうと、ぼくは勝手に思い込んでいた。だけど、それはどうやら虫のいい願望でしかなかったらしい。


 まあ、ちょっと考えればわかることだ。いかに王都広しといえど、同じ街に住んでいる者同士、どこかでばったり行き会うこともあるだろう。ちょうど、あの冬の日の午後のように。


「おまえ、あんときの……」


 とっさに駆け出そうとしたぼくの腕を、親方はむんずとつかんで引きもどした。


「どこ行くんだ」


 ぼくの顔をのぞきこむ親方は、初めて会ったときほどではないが、やっぱり酒臭く、ぼくは嫌悪感に身をよじった。そのまま親方の手をふりほどいてやりたかったのだが、腕に食い込む指の力は思いのほか強く、ぼくを捕らえて離さなかった。


「おいこら、暴れるんじゃねえ」


 揉み合うぼくらに、道行く人々が不審げな視線を投げかける。こうなったら叫んでやると、ぼくが息を吸いこんだとき、通行人の一人が声をかけてきた。


「ロブソンじゃないか。何やってんだ、おまえ」


 のっそりした足取りで近づいてきたのは、ロブソン親方と似たような身なりの男の人だった。背が高く、痩せぎすで、血色の悪い顔を黒ずんだ襟巻にうずめている。

 助かったと思ったのは、どうやらぼくの早とちりだったらしい。その人は特に何をするでもなく、上着のポケットに両手を突っ込んだまま、ぼくをじろじろと眺めまわした。


「その坊主に財布でもられたか?」

「ちげえよ、馬鹿」


 ロブソン親方は道端に唾を吐いた。


「そこまでおれは間抜けじゃねえ。そうじゃなくて、あの小僧だよ。あの孤児院あがりの……」

「ああ」


 襟巻の男は思い出したようにうなずいた。


「あんときは災難だったな、おまえ。わざわざ停車場まで迎えに行ってやったのに」


 え、とぼくは思わず声をもらし、ロブソン親方を見上げた。赤ら顔の親方は、不機嫌そうに「うるせえよ」とつぶやいた。


「迎えに……ぼくを」

「そうだぜ、坊主」


 親方より早く、襟巻の男が応じた。


「おまえ、何があったか知らんが、ちゃんとそいつに謝っとけよ。そいつはなあ、久々に弟子をとるってんで、ずいぶん前からおまえのためにいろいろ準備してやってたんだぜ。あの日だって、忙しいなか迎えに行ってやったってのに、おまえときたら一人でふらふらどっかに行っちまいやがって。おかげでそいつはえらく心配して、誘拐じゃないかって駐在にまで……」

「うるせえっつってんだろ」


 派手な舌打ちをもらし、親方は犬でも追い払うように襟巻の男に手を振った。


「おまえにゃ関係ねえだろうが。おまえこそ、さっさとどっかに行っちまいな」

「おおこわ


 襟巻の男は首をすくめ、じゃ、とぶっきらぼうに告げて歩き去っていった。往来に残されたぼくは、ぼんやりとロブソン親方を仰ぎ見た。


「……ロブソンさん」


 襟巻の男が言っていたことが本当なら、あの日、ぼくが初めて王都の土を踏んだあの春の日に、ロブソン親方は停車場まで足を運んでくれていたのだ。孤児院を出たばかりの、王都にはてんで不案内な田舎者のために。


「すみませんでした」


 口にしてから、違うと気づいた。ぼくのためにあれこれ心を砕いてくれたであろうこの人には、謝るだけでは足りないのだと。


「ありがとうございます。その……いろいろと」


 ロブソン親方はふんと鼻を鳴らして横を向いた。


「別にどうってことねえよ。親方なら当然だ」


 ぼくは、と。目が覚めるような思いで、ぼくは親方のしかめっ面を見上げていた。


 ぼくは、ちゃんと見ていただろうか。今までちゃんと、この人が見えていただろうか。この人だけじゃない。ぼくを育ててくれた祖母を、孤児院長を、村の人々を。皆の顔を、表情を、ぼくに向けてくれた感情を、ぼくはきちんと受け止めていただろうか。視界に映る「色」に惑わされず、目をそらさず正面から。


 いつの間にか、ぼくの腕は自由になっていた。だけど、ぼくにもう逃げる気はなかった。もうこの人から逃げる必要はないのだと、ぼくにはわかっていたのだから。

 



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