第74話 衛生兵の帰還
それからの数日間を、ぼくは屋根裏のベッドで過ごした。引き込んだ風邪がぐずぐずと長引き、なかなかぼくを解放してくれなかったのだ。
寝ついてしまったぼくを、献身的に介抱してくれたのはキャリガン夫妻だ。あれから夫妻はずっと家に泊まりこんで、ぼくの面倒を見てくれた。もっとも夫妻の記憶では、初めから住み込みで働いていたことになっていたらしい。
たぶん、いや間違いなく、夫妻の記憶を修正していったのは先生だろう。パルモント劇場の人々の記憶から、アーサー・シグマルディという幻術師の存在を消し去ったのと同じように。
「坊ちゃんは何も心配することはないんですからね」
看病のかたわら、キャリガン夫人は繰り返しそう元気づけてくれた。
「この家はこの先もずっと坊ちゃんの家ですし、わたくしたちもおりますし……」
夫人のおしゃべりの断片から、ぼくはぼく自身がどんな状況に置かれていることになっているのか、おぼろげながら理解することができた。
孤児院出身の少年──つまりぼくは、グラウベンの慈善家チェンバース一族の紳士に引き取られる。しかし、その紳士はある日旅に出かけたまま、行方知れずになってしまった。残された哀れな少年は、目下のところ親切な家政婦とそのご夫君の助けにより何とか暮らしている……とまあ、こんなところだ。
先生らしい、とぼくは呆れる思いだった。面倒くさがりの先生らしい、じつに大雑把な筋書きだと。
──まあまあ、ルカ君。
ぼくの頭の中で、先生が笑った。ぼくを宥めるように、からかうように。そう細かいことを気にするものじゃないよ。いいじゃないか、辻褄は合っているだろう?
よくないですよ、先生、とぼくは毛布の中でため息をついた。全然よくないです。
長患いの間、ぼくはひたすら先生のことを考えていた。窓越しの鉛色の空を見上げながら、先生に関するありったけの記憶をすくい上げ、手のひらに載せて、ありとあらゆる角度から凝視する。そして自分に問いかけるのだ。
あの日、あの時、あの瞬間、ぼくがああしていたら、こう答えていたら、先生を止めることができただろうか。ぼくがもっといろんなことに気づいていれば、先生は今も側にいてくれたんじゃないか、なんて。
際限のない自問と自責に疲れ果てると、ぼくは父の手帳を読んだ。何度も何度も、くりかえし。
父の目に映ったチェンバース大尉は、ぼくが知っている先生とは少し違って、でもやっぱり先生だった。昔から面倒くさがりだったんだなと、思ったときはまた少し泣いてしまった。
オリヴァ・クルス。黒髪の気のいい衛生兵。ぼくと同じく絵を描くことが好きで、ぼくと同じ厄介な眼を持っていた青年。
父が母へ贈った言葉の数々は、ぼくにとってはいささか照れくさいものだったけど、父が最後までぼくたちのもとへ帰ろうと願っていた事実は、ひび割れたぼくの心をほんのりと温めてくれた。
たぶん、とぼくは思った。たぶん、先生は父のもとへは戻れなかった。あるいは、間に合わなかった。そのことを、先生はずっと悔やんでいたのだろう。ずっと自分を責めていたんだろう。ぼくが生まれる前、十三年前から、ずっと。
ぼくは大きく息を吐き、手帳を持ってベッドから降りた。ふらつく足を踏みしめて、書き物机の前に立つ。机の上には、小さな額縁が立てかけてあった。水色のリボンの少女。父が描いた、母の絵だ。
母さん、とぼくは呼びかけて、手帳を額縁の前に置いた。それから、かさついた革の表紙に手を置いて、父さん、とつぶやいた。おかえり、父さん、と。
額縁の中で、薄水色の瞳の少女はやさしく、そして少しだけ寂しそうに微笑んでいた。




