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黄昏の幻術師  作者: いろは
第六章
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第72話 オリヴァ・クルスの手記 11

 グレイス、きみも知ってのとおり、ぼくは一度故郷を捨てた。家も仕事も友人も、すべてを捨てて、ぼくは逃げた。


 そのことを後悔していないと言えば嘘になる。だけど、言い訳を許してもらえるなら、当時のぼくに他の道はなかったんだ。あのまま故郷に留まっていることは、どうしてもできなかった。あの家ではうまく息ができなかった。父を死なせてしまった罪悪感に溺れてしまいそうだったんだ。


 過去の自分を否定するつもりはないけれど、少なくとも最良の選択じゃなかったことはわかっている。今のぼくなら、あの時とは違う道を選ぶこともできるだろう。そう思えるようになったのも、グレイス、きみのおかげなんだけどね。


 だからというわけでもないけれど、ぼくにはアーサーの気持ちがよくわかった。いや、そんな言い方はおこがましい。彼がなぜぼくのところへ来たのか、その理由はだいたい想像がつく、といったところかな。


 きみの気持ちは嬉しいよ、とぼくは彼に言った。これは嘘じゃない。彼がぼくを助けてくれようとしたことには、心から感謝している。


 だけどなアーサー、と。この頃になるともう中隊長だの大尉どのだのといった敬称は放り捨てて、ぼくは彼に説いた。昔馴染みとして、戦場の仲間として、友人として。ぼくだけを助けたところで、きみが楽になれるわけじゃないと。


 意地悪を承知で言うとね、グレイス、彼はぼくを逃がすことで、自分も逃げたかったんだと思う。そうやって、少しの間だけでも息をつきたかったんだ。底なしの沼から顔だけ出して呼吸するみたいに。


 だけど、それじゃだめなんだ。それだけじゃ、すぐにまた沈んでしまう。ぼく以外の全員を見捨てたという罪の意識に溺れてしまう。罪悪感てやつは、そうそう簡単にぼくらを放しちゃくれないんだ。


 だから頼むよ、とぼくは訴えた。きみが行って、こんな馬鹿々々しい作戦はやめるよう説得してくれと。行って、ぼくらを助けてくれ。きみ自身を救ってやれ、と。


 彼はしばらくぼくを見つめていたが、ややあって無理だと吐き捨てた。説得に応じるような相手じゃないと。だったら脅迫しろ、とぼくが返すと、彼は呆気にとられた顔をして、すぐに目を吊り上げた。おまえは正気かと言いたげに。


 あいにくと、ぼくは正気も正気、この上なく真剣だった。なりふり構っている場合じゃない。なにしろぼくらの命、彼も含めたぼくら全員の今後がかかっているんだから。


 ぼくの本気、あるいは狂気が彼を動かした、とは自惚うぬぼれが過ぎるだろう。きっと彼もわかっていたんだ。はじめから、何をすべきかは。ただ最初の一歩を踏み出せずにいただけだ。ぼくはそのきっかけをつくったに過ぎない。それだけで充分だった。


 短い睨み合いの末、アーサーはため息をついて立ち上がった。どこへ行く、と思わず声をかけたぼくを、彼は常のごとく冷めた目で見下ろし、交渉に、とこれまた熱のない声で応じた。


 彼の返答に、ぼくがどれほど安堵したか、グレイス、きみにはわかってもらえると思う。ほっとすると同時に、ぼくは嬉しくなった。ようやく彼がいつもの調子を取り戻したように見えたから。ぼくの前に立っていたのは、冷静でそっけなくて頼もしい、われらが中隊長のチェンバース大尉どのだった。


 そのまま扉の方へ歩いていく彼の背中に、ぼくはありがとうと声をかけた。昨夜の逃亡兵がぼくにかけてくれたように。ぼくにお礼を言われて彼が喜ぶとも思えなかったけど、それでも、ほんの少しでも彼の心を温めてくれることを願って。


 アーサーは淡い光がもれる扉に手をかけて振り返り、あんたは馬鹿だ、とつぶやいた。ぼくが言い返す前に、彼の輪郭は光に溶けていった。背の高い影が見えなくなると、光も消えた。あとに残ったのは暗闇と寒さと、しけた煙の匂いだけだった。


 彼を見送ってから、ぼくはもう一本煙草を吸い、のそのそと外にはい出した。階段を登ったところで血相を変えた軍医に行き会って、何か言う暇もなく怒鳴られたよ。この忙しいときに何してるってね。それから、ぼくはぼくの戦場に放り込まれた。これでも処分中の身なんだけど、誰もそんなこと気にしちゃいなかった。ぼくらの隊長どのの姿が見えないことと同様に。


 夜が更けるまで大勢の怪我人の間を走り回って、ようやく解放されたのはついさっきだ。身体はぼろ切れみたいにくたくたなのに、頭が冴えてどうにも寝つけなかったから、あきらめてぼくは今ここにいる。ぼくの頭よりずっと冴えた月を見上げながら、アーサーがくれた煙草を独りふかしている。


 ねえグレイス、彼の捨て台詞は正しいよ。ぼくの選択は利口じゃなかった。全面的に同意する。だけどね、グレイス、多分ぼくは、利口な自分のことはあまり好きになれないと思う。ぼくが好きじゃないぼくなんて、きみも好いてはくれないだろう。


 いいんだ、ぼくはこれで。いつか、この話をぼくらの子どもに聞かせる日がくるかもしれない。その時は胸を張ってこう言ってやるよ。これでよかったんだって。おまえの父さんは馬鹿は馬鹿でも正しい馬鹿だって……いや、さすがにちょっと情けないか。


 愛するグレイス。ぼくたちの子どもは、どんなふうに育つんだろうね。女の子なら、きっときみに似て優しい子になるだろう。男の子だったら……やっぱりぼくよりきみに似たほうがいいだろうな。どちらでもいい。無事に生まれてきてくれさえすれば。ぼくはきっと絵を描くだろう。きみと、日々成長していく子どもの絵を。何枚も、何枚でも。


 ああ本当に、今から楽しみで仕方ないよ。だからグレイス、もう少しだけ待っていてくれ。もうすぐぼくは帰るから。だからその日まで、どうか笑っていてくれ、グレイス。ぼくの胸のうちで、ずっと笑っていてほしい。きみの笑顔、きみの色は、どんな光よりぼくを温めてくれるから。





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