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黄昏の幻術師  作者: いろは
第六章
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第70話 オリヴァ・クルスの手記 9

 ねえグレイス。ぼくがった日のことを、きみたちのもとを離れた日のことを、きみは覚えているだろうか。あのとき、ぼくはこう言ったね。必ず帰ってくるから、どうか待っていてくれと。


 あの言葉は嘘じゃない。世界で一番大切なきみたちのもとへ帰るためなら、ぼくは何だってしてみせる。その気持ちに嘘はないし、今だってそう思っている。


 なのに、どうしてだろうね、グレイス。どうしてぼくは、今もここで月を見上げているんだろう。この、代わり映えのしないキールの丘で、相も変わらず白い息を吐きながら。


 彼の言葉に従っていれば、今頃ぼくはこのいまいましい丘とおさらばしていたはずだ。少なくともここよりはずっと安全な友軍の基地で、ぬくぬくと毛布にくるまっていたかもしれない。あるいは、本国行きの船に揺られていたかもしれない。想像するだけで胸が躍る可能性を、ぼくの前に広げてみせたのは彼、アーサーだ。まるで昔話に出てくる悪魔みたいに、なんて言ったらさすがに失礼かな。


 地下室に現れたアーサーは、ぼくに逃げろと告げた。丘がちたのかと、ぼくは訊ねた。彼はかすかに首をふり、まだ、と答えた。だから逃げろ、とも。どこへ、とぼくはまた訊いた。どこへでも、と彼は応じ、一歩横にずれて背後の扉をあごでしゃくった。開いた扉の向こうは、ぼんやりとした黄昏の光に包まれていた。


 心配ないと彼は言った。ぼくの頭の中を読んだように。誰に見咎められることも、敵に捕まることもない。あの扉の向こうは安全だと。きみはただあの扉をくぐればいいだけだと。


 ぼくはあっけにとられて彼を見上げていた。まったく、わけがわからなかった。どこの世界の上官が、部下に敵前逃亡を勧めるだろう。おまけに、扉をくぐればいいだけだって? きみはいつから奇術師になったんだと、あやうく失笑しかけたぼくは、彼の顔を見て笑いを引っ込めた。ぼくを見下ろす彼の顔が、どんな冗談も入り込めないほど冷たく険しかったものだから。


 座ったまま動かないぼくにれたように、アーサーはかかとを床に打ちつけた。その音で、ぼくは我に返った。


 煙草はあるか、とぼくは訊ねた。今度は彼がぽかんとする番だった。貴重な間抜けづらをさらした後で、彼は苛立たしげに頭をふった。ふざけている場合じゃないってね。あいにく、ぼくは大真面目だった。だいたい、今までさんざんわけてやったんだ。一本くらい恵んでくれてもいいじゃないか。


 短い押し問答の末、彼は根負けしたように腰を下ろした。それから、胸元から煙草をとりだし、一本くわえて火をつけると、残りを箱ごとぼくに投げてよこした。怒っているというより、不貞腐ふてくされているといった感じだったね。

 

 馬鹿げている、と、ややあって彼はつぶやいた。まったくだ、とぼくはうなずいた。ぼくらを取り巻く状況の何もかもが、まったく馬鹿げているように思えて仕方なかったからだ。ぼくが同意すると、彼は非難がましい目をぼくに向けた。わかっているならなぜ逃げない、とその目が語っていた。


 グレイス、きみも知ってのとおり、ぼくはべつに高潔な人間というわけじゃない。逃げろと言われた瞬間、ここから逃げられるんだと理解した瞬間、ぼくの胸は大きく跳ねた。その衝動のまま、彼が示した扉をくぐってしまいたかった。


 だけど、結局ぼくの足は動かなかった。ぼくを思いとどまらせたものの正体を、言葉にするのは難しい。ただ、なんとなく、彼を一人にしたくないと思ったんだ。彼だけじゃない。ぼくの仲間、まだ生きているぼくの仲間を置いていきたくなかった。置いていかれるのは、ひどく辛いものだから。


 誤解しないでくれ、グレイス。きみたちより彼らが大事というわけじゃない。誰よりも大事なきみたちにとって、恥ずかしくない自分でいたいだけだ。欲を言えば、きみたちにとって誇れる夫、誇れる父親でありたい。つまるところ、ただの見栄っ張りというわけさ。


 このあたりの心情を他人に話すのは野暮というものだから、ぼくは首をすくめてごまかし、逆に訊いてやった。きみこそなぜ、と。戦況がここまで悪化しているなら、なぜ撤退なり降伏なりのみちをとらないのかと。一兵卒のぼくでもわかることを、アーサーたち上の連中がわからないはずもなかろうに。


 いや、それ以前に、ぼくはずっと不思議に思っていたんだ。なぜ彼がここにいるんだろうと。あんな、どこからどう見ても軍だの戦場だのに縁のなさそうな若者が、年齢としに不釣り合いな階級章をぶらさげて、前線に送り込まれるはめになったのかと。


 彼はぼくから目をそらし、ゆがめた唇から煙を吐いた。どうせ答えは返ってこないだろうと思っていたけど、案に反して彼は低い声でつぶやいた。取引だよ、と。


 うつむき加減で煙草をくわえる横顔は、普段の冷静な大尉どののものには見えなかった。そこにいたのは年相応の、ひどく傷ついてくたびれた、ぼくの昔馴染みの青年だった。






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