第69話 オリヴァ・クルスの手記 8
愛するグレイス
いま、ぼくは夜空の下にいる。月が綺麗だ。ぴかぴかの銀貨みたいな、怖いくらいに冴えた月。
前回はずいぶん情けないことを書いてしまったね。いま読み返して赤面している。自分ではわりと冷静なつもりだったんだけど、思った以上に取り乱していたらしい。相変わらず弱い人間だ、ぼくは。故郷を逃げ出してきた、あの頃とまるで変わっていない。
とにかく安心してくれ、グレイス。ぼくはちゃんと外に出してもらえた。骨の髄まで凍りつきそうな地下倉庫で、いったいどれだけ震えていただろう。気がつくと砲撃の音は止んでいた。
ぼくは強張った手足をのばし、ためしに声をあげてみた。誰か、と。それから順番に仲間の名を呼んだ。ジョーイ、フレッド、サム、ロディ。ヘインズ軍曹やワイト伍長の名まで。口にしたそばから、ぼくの声は暗がりに吸い込まれていった。
頭に浮かんだ名を片っ端から呼んだけど、応えてくれる人は誰もいなかった。誰もが、ぼくを忘れてしまったかのようだった。最後に、ぼくはアーサーの名を呼んだ。チェンバース大尉でも、中隊長どのでもなく、ただアーサーと。
その直後、扉が開いた。ぼんやりした光を背に立つ人影を見て、ぼくは思わず笑ってしまった。まるで図ったように彼が現れたものだから。
あんまりおかしくて、それからほっとして、ぼくはつい余計なことを口走ってしまった。きみは舞台が似合いそうだな、と。
冷やかしのつもりはなかった。本当にそう思ったんだ。背が高くて風采のいい彼なら、間違いなく舞台映えするだろうと思っただけだ。けれどすぐに、そんな軽口をたたいたことを後悔した。けわしい顔つきでぼくを見下ろすアーサーが、ひどく憔悴した様子だったからだ。
身なりや風体のことじゃない。戦場に放り込まれて一週間もすれば、どんなやつだって多かれ少なかれ薄汚れてしまうものだ。もちろん、われらが中隊長どのも例外じゃない。赴任当初はきらきらだった髪はすっかりくすみ、血色の悪い顔には無精ひげが目立ち、ぱりっとしていた軍服は見る影もなくよれよれといった具合だ。
そういうぼくはどうだって? まあ、いまのぼくを見たら、きみのお母上は卒倒するだろうとだけ言っておくよ。
だから、ぼくが心配したのは彼の外見のことなんかじゃなかった。彼をとりまく色、ため息を誘われるようなあの光が、いつになく暗い翳りを帯びているように見えたからだ。
大丈夫かと、思わずぼくは声をかけた。
まったく、あのときの彼の姿は心臓に悪かった。苦手なんだよ、ああいう色は。死ぬ間際の父を思い出す。置いていかれる心細さと、何もできないもどかしさに、気が狂いそうになる。この仕事についてからは、ずいぶん慣れた──いや、鈍感になっていたぼくだけど、やっぱり歓迎できないものであることに変わりはない。
ぼくの問いかけに、彼はただ無言で手にしていた荷物をぼくに放った。どさりとぼくの腹に落ちてきたのは、けっこうな重さのある背嚢と外套で、身体の芯まで冷えきっていたぼくは、大急ぎでごわごわの外套にくるまった。
とりあえず凍死の危険からは遠ざかり、ぼくはまず彼にお礼を言った。それから、いくつか質問をした。外の様子はどうだとか、仲間は無事かとか、ぼくは持ち場にもどっていいのかとか、いろいろ。
そのどれもに、彼は答えなかった。再会した日と同じ、熱のない目でぼくを見下ろし、ぼくの質問が尽きたところでようやく口を開いた。
逃げろ、と。ただ一言、彼はぼくにそう告げた。




