第60話 ただそれだけのこと
先生は、もう戻らない。先生と同じ声色で発せられたその言葉は、ぼくの頭をがんと殴りつけ、それから胸のうちにゆっくりと沈んでいった。澱のように、毒のように。
「……あなたが」
衝撃が去って、最初にやってきたのは怒りだった。腹の底が灼けるような感情に突き動かされ、ぼくは目の前の紳士に食ってかかった。
「あなたが、先生を……」
「愚か者が」
チェンバース卿の痛罵は、ぼくの激情に冷水を浴びせると同時に、この場にいない誰かを非難しているようだった。
「あれが自ら望んだことだ。考えうるかぎり最も愚かな道を、あれは選んだ。鍵を──」
そこでチェンバース卿はちらとぼくに目をくれた。“鍵”という言葉の持つ意味を、ぼくが知っているのか確認するように。
「鍵を持って、あれは逃げた。負うべき責務を放り捨て、身勝手にも一人で逃げたのだ。逃げた者は二度と戻らない」
それだけ言って、チェンバース卿は口を閉ざした。ぼくはしばらく待ったが、その先の説明はなかった。
「……意味がわかりません」
やむなく、ぼくのほうから問いかけた。どうやらチェンバース卿が先生に害を加えたわけではないらしいことはわかったが、それでも目の前の紳士に対する怒りは、まだぼくの中でくすぶりつづけていた。
「逃げたって、どこへですか。だいたい、なんで先生がそんなこと……」
「わからぬふりはよせ」
冷厳な声が、ぼくの言葉をさえぎった。
「おまえの繰り言につきあう気はない。告げるべきことは告げた。解釈は好きにしろ。もし、本当にわたしの言うことがわからぬというなら──」
ぼくを見る紳士の目に、はじめて感情めいたものがよぎった気がした。それが憎悪なのか軽蔑なのか、はたまた別の何かなのか、ぼくには判断がつかなかったけれど。
「アーサーの見る目がなかったということだ。いくら茶番だったとはいえ、あれが次の“鍵番”にかような愚物をすえる気だったとは、あまり思いたくはないがな」
じつに卑劣に、そして巧妙に、チェンバース卿はぼくの口を封じてみせた。ぼくが馬鹿なことを──あの紳士にとって馬鹿なことを口にすれば、それはすなわち先生の落ち度なのだと、あの人はまんまとぼくに思い込ませてしまったのだ。
重苦しい沈黙のなかで、ぼくは混乱しきった頭を必死で整理していた。先生の名誉のために言っておくが、あの紳士が口にしたことが何ひとつわからない、ということはさすがになかった。ただ、わかることと、それを消化することは、まったく別物だったということだ。
鍵を持って、先生は逃げた。それは間違いなく、先生が以前話してくれた鍵のことだろう。ぼくが妖精の鍵と言い、先生が呪いと評したその鍵を、先生はいつか返すつもりだと語っていた。最初からそう決めていたのだと。だから、
「逃げたんじゃありません」
愚か者でも愚物でも、ぼくのことは好きに呼べばいい。そんなことはどうだっていいのだ。だけど、これだけは我慢ならなかった。
「先生は逃げてません。返しに行っただけです」
鍵を持って妖精の国へ。あるべきものを、あるべき場所へ。ただそれだけだ。それだけのことだから、きっとすぐに──
「同じことだ」
ぼくの願望を、チェンバース卿はあっさりと砕いてみせた。まるで卵の殻でもつぶすように易々と。
「あれがどういうつもりだろうと、事実は変わらん。鍵は失われた。あれはもう戻らない」
ぼくは、もう何も考えられなかった。ただ呆けたように目の前の紳士を見つめるしかなかったぼくの耳に、相変わらず感情を欠いた声が流れ込んでくる。
「鍵がなければ“鍵番”もまた存在しない。あれの名は拭い去られた。おまえがいくら探しまわっても無駄だ。わたしはそれを伝えるために来た」
鋭い眼光に射すくめられながら、ぼくはやっぱりな、と思っていた。
声だけじゃない。チェンバース卿の面差しは、先生のそれとよく似ていた。それまであの紳士を覆う「黒」にばかり目がいって気がつかなかったけれど、やっぱりこの二人は父子なのだ。しびれたような頭の片隅で、ぼくはそんな埒もないことを考えていた。
「余計なことは嗅ぎまわるな。あれに免じて、おまえのことは捨ておいてやる。おまえはすべてを忘れて凡俗に生きるといい。おまえが大人しくしているかぎり、こちらも手は出さん。だが、おまえが少しでも妙な素振りを見せたら、そのときは直ちに然るべき処置をとる」
あまりに淡々と語られたそれが脅迫だと、ぼくが気づくと同時に馬車が止まった。チェンバース卿が開けた扉の向こうには、見慣れた通りの景色が広がっていた。先生の家に帰ってきたのだ。
「……あなたは」
あなたはどうするのかと、そう尋ねるつもりだったのに、口からこぼれた言葉はまるで違うものだった。
「あなたは、悲しくないんですか」
返事はなかった。ふた呼吸ほどの間をおいて、チェンバース卿は手にしていたステッキでとんと床をついた。早く出て行けと言うように。
ぼくが降りるとすぐに背後で扉が閉まり、馬車は走り去っていった。御者台のキャリガン氏がどんな表情をしていたのか、確かめる暇すらなかった。
通りに残されたぼくは、ぼんやりと夜空を見上げた。凍てつく星のまたたく空のもと、点灯夫に忘れ去られたガス灯の側で、ぼくは独り立ちつくしていた。




