第58話 でたらめな芝居
老ベルトランが消えた暗がりをしばらくうろうろしてから、ぼくは諦めてその場を後にした。急に姿を消してしまった支配人のことは気がかりだったが、それ以上にぼくは先生が心配だった。舞台の上にあらわれた、あの黒い手。あれが先生にとって良いものだとは、どうしても思えなかった。
急いた気持ちそのままに階段を駆け降りたところで、ぼくはあやうく誰かにぶつかりそうになってしまった。
「きゃっ」
小さく声をあげたその人は、きらきら輝く衣装をまとったアレクサさんだった。ぼくは慌てて詫びの言葉を口にしようとしたのだが、それより前にアレクサさんがぼくを見下ろしてこう言った。
「あら、あんた誰? どこからきたの?」
瞬間、ぼくの頭は真っ白になった。本当に、何を言われたのかわからなかったのだ。木偶のように立ちつくすぼくに、アレクサさんは次々と質問を浴びせた。
「新入りの子じゃないわよね。誰かのお遣い? ね、坊や、あんた名まえは?」
何の冗談ですかと、笑い飛ばしてしまえばよかったのかもしれない。あるいは、変なお芝居はやめてくださいと抗議すべきだったろうか。
そのどちらも、ぼくはできなかった。ぼくの顔をのぞきこんでくるアレクサさんの、その薄茶の瞳に真剣な気遣いが浮かんでいるのを見てしまったので。演技じゃない。そうとわかると同時に、ぼくの身体がぞくりと冷えた。
「アレクサ、そろそろ出番よ。早くいらっしゃい」
舞台袖へつづく通路の奥から、すらりとした女性がやってきて手招きをした。ルイザさんだ。すがるような気持ちでルイザさんを見たぼくだったが、祈りにも似た希望はあっけなく打ち砕かれた。
「誰よ、その子」
驚きは、先ほどよりは小さかった。だからといって救われたわけでもなかったが。
「知らない。迷子みたいなんだけど」
「勝手に入ってきちゃったってこと? だめじゃない。ねえ、支配人さん、ちょっと来て」
ルイザさんの呼びかけにこたえて、恰幅のよい紳士が歩み寄ってきた。パルモント劇場の支配人、ベルトラン氏だった。もちろん、初代ではないほうの。
「どうしたね、坊や。どこから入ってきたんだい。ああ、おまえたちは早く行きなさい」
ぼくに質問する一方で、ベルトラン氏はアレクサさんとルイザさんに手をふって舞台へ向かわせた。次の演目がすでに始まっていたのだ。前座の舞台は、先生の出番はもうとっくに終わっていたのだから。
「……先生は」
喉からしぼりだした声が、まるで自分のものではないように聞こえた。
「先生は、どこですか」
先生? と首をかしげたベルトラン氏に対して、ぼくはもう少しで癇癪を爆発させるところだった。さっきから寄ってたかって何なんだ、いいから先生がどこにいるのか教えてくれ、と。
「シグマルディ……幻術師の」
「幻術師?」
ああ、とベルトラン氏はうなずいた。
「前座の幻術師を探しているのかね? 彼ならついさっき帰ったよ。だがな、坊や」
いかにも人が好さそうな顔で、ベルトラン氏はぼくにとどめをさした。
「今夜の幻術師は、フレッソン氏だよ。きみの言う、その、シグマルディというのは誰のことかね」
足元が、がらがらと音をたてて崩れていくようだった。筋書きも台詞もでたらめな、狂った芝居に突然放り込まれたように、ぼくはただ呆然とその場に突っ立っていた。
「大丈夫かね、坊や」
ぼくがよほどひどい顔をしていたからだろう。ベルトラン氏はぼくの肩に手をそえ、親切に申し出てくれた。
「具合が悪いのなら、奥で少し横になっても……」
「失礼」
背後で硬い声がした。聞き覚えのある低い声。先生、とぼくは勢いよく振り向き、そこで愕然とした。
「それはわたしの連れだ」
痩身に黒いコートをまとい、銀の握りのステッキを携えたその紳士──チェンバース卿は、灰色の眉の下から鋭い眼光をぼくに投げかけた。




