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黄昏の幻術師  作者: いろは
第五章
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第57話 それはいつか醒める夢

「やあ、坊や」


 天井の暗がりでぼくを迎えてくれたのは、老ベルトランのしゃがれ声だった。


「少し見ないうちに背が伸びたんじゃないかね」


 嬉しいことを言ってくれる老ベルトランの顔は、相変わらず影に隠れて見えなかった。だけど、この初代支配人がぼくに向けてくれる温かな気持ちは、暗闇の中でもちゃんと感じとることができた。


「お久しぶりです、ベルトランさん」


 ぼくはいつものように老ベルトランの隣に立ち、手すりにもたれて舞台を見下ろした。開演前のあの時間が、ぼくはとても好きだった。客席の抑制されたざわめき、期待と興奮に満ちた空気。それ自体が、劇場につどった人々を夢のひとときへいざなう魔法のようなものだった。


「どうしたね、坊や」


 だけど、その晩に限っては、ぼくへの魔法の効きはいまひとつのようだった。


「浮かない顔をしとるじゃないか。親方に叱られでもしたかな」


 親方って誰だろう、と思ってすぐに、ああとぼくは笑った。ぼくの親方といえばただ一人。当代一の幻術使い、アーサー・シグマルディに決まっているじゃないか。


「叱られてはいないです」


 考えてみれば、先生がぼくを叱ったことは一度もなかった。ぼくが何か失敗しても、先生はいつも笑ってすませてくれたから。そう、先生はいつだって穏やかで優しかった。だから困るのだ。反抗の一つもできなくて。


「ちょっと悩んでいることがありまして」


 王立美術学院の件について、ぼくはまだ結論を出せていなかった。ダリルさんのおかげでだいぶ気持ちは楽になったものの、ぼくの心は相変わらず同じところをぐるぐるとさまよい続けていたのだった。


「ほう、そりゃあいい」


 予想外の合いの手に、ぼくは驚いて隣を見た。暗がりの中で、老ベルトランは笑っているようだった。


「悩むことがあるのはいいことだ。坊やくらいの年齢としの頃は、特にな」

「そうなんですか」

「そうさ、坊や。悩むということは、好きな道を選べるということじゃないかね。世の中のたいていのことは、そうはいかん。たいていのことは、悩む暇もなく決められてしまうものだ。生まれや才能、運に金……自分以外の誰かにな」


 客席の照明が落ちた。わっという観客のどよめきに、朗々とした先生の口上が重なった。


「淑女ならびに紳士の皆さま、パルモント劇場へようこそ──」


 その晩の先生の舞台は、水の乙女の踊りから始まった。老ベルトランお気に入りの幻術だ。虹色に輝く水の乙女たちが優雅に踊り、先生の指揮にあわせて唄いだす。


「これはなんと、大盤振る舞いだな」


 老ベルトランが讃嘆の声をもらしたのもうなずける。その晩の先生の幻術は、ぼくがそれまで目にしたどんなものより美しく、華やかな光に満ちていた。


 水の乙女たちがきらめく泡となって消えると、かわりに舞台に虹が咲く。幾重にも連なる虹の橋を小人の道化師が跳ね歩き、帽子の中からつかみだした金貨を空へ放る。光り輝く金貨の雨は、すぐさま金色の小鳥に姿を変え、先生が掲げたシルクハットの中へ飛び込んでいく。


 あの晩の舞台、どんな夢より美しいあの光景は、今でもぼくの胸に大切にしまってある。ぼくの中の特等席で、その記憶はいつまでも静かな輝きを放ち、ぼくを温めてくれているのだ。いつか先生がそうであれと願ったとおり。


 先生が生みだす幻術に目を奪われていたぼくが「それ」に気づいたのは、舞台も終盤にさしかかった頃だった。


 舞台にあふれる黄金の光。その中に、ぼくはふと黒いものを見つけたのだ。それも一つではなく、五つか六つ、いや、十はあったかもしれない。最初、ぼくは「それ」を舞台を飛びまわる極彩鳥の影かと思った。だけど、ゆったりと翼を広げる鳥とはまるで違う動きをするその黒が、ただの影ではないことはすぐにわかった。


 ぼくは手すりから身を乗り出すようにして「それ」に目を凝らし、次いで、全身の血が凍るような恐怖に襲われた。


 舞台にうごめく、いくつもの黒。天井から見下ろすぼくの目に、その黒はちょうどこんな形に見えた。ほら、こんな形だ。何かをつかもうとするような、人の手の形。


 先生、と、ぼくは叫びたかった。だけど、ぼくののどのりでふさがれたように声を通してくれなかった。喉だけじゃない。手すりをにぎるぼくの指。床板を踏みしめるぼくの足。その何一つとして、ぼくの思いどおりにはなってくれなかった。ちょうど、グレンシャムの館で狂った振り子時計を前したときのように。


 ぼくの眼下で、黒い手はじりじりと這い進んだ。舞台の中央に立つ先生の方へ。渦をえがくように、輪をせばめるように。


「それでは、皆さま」


 先生の声に、ぼくははっとした。同時に、身体の強張りが解ける。


「お名残惜しいところではありますが、そろそろお別れの時がやってまいりました」


 先生は胸元からきらきら光るものをとりだし、顔にかけた。それが開演前にぼくが手わたした眼鏡だということは、遠目にもすぐにわかった。


「この世に明けぬ夜はなく、醒めぬ夢もまたなし。ですがどうか、この一夜の夢が貴方あなたのささやかな慰めとなりますように」


 先生は胸に手を当てて優雅にお辞儀をした。その瞬間、舞台にあふれていた光がぎゅっと凝縮し、花火のようにはじけた。まぶしさに目を閉じたぼくが、次に目を開けたとき、舞台の上からは何もかもが消えていた。きらめく光も、黒い手も、そして先生の姿も。


 一拍おいて、客席から喝采が沸き起こった。呆然と舞台を見下ろしていたぼくは、そのときになってようやく気づいた。ついさっきまで隣にあったはずの気配が、煙のように消え失せていることに。


「……ベルトランさん」


 呼びかけに、返事はなかった。万雷の拍手が鳴り響くなか、ぼくは暗闇にただ一人きりだった。


 


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