第56話 生まれもった素質
先代女王陛下の喪が明け、先生がふたたび舞台に立ったのはその年の冬至、空の星すら凍てつきそうな晩のことだった。
いつものようにキャリガン氏の馬車に揺られ、なじみのパルモント劇場の裏扉をくぐったとたん、温められた空気と懐かしいざわめきがぼくの身をつつんだ。
「久しぶりじゃない、アーサー!」
真っ先に駆け寄ってきたのはアレクサさんだった。華やかな、そして相変わらず目のやり場に困る衣装をまとったアレクサさんは、勢いよく先生の右腕にしがみついた。
「元気だった? あ、坊やも」
ぼくが赤くなっている間に、今度はルイザさんが歩み寄ってきて先生の左肩にしなだれかかった。
「会えなくて寂しかったわ。あなたは? アーサー」
「もちろん」
先生は左右の花に愛想よく微笑みかけた。
「皆に会えなくて寂しかったよ」
「……そうでしょうとも」
ルイザさんは呆れと諦めと、いくばくかの非難をこめた視線を先生に投げかけ、アレクサさんは「あのね、坊や」とぼくに片目をつぶってみせた。
「坊やはこういう男になっちゃだめよ」
ご心配なく、というのが正直なところだった。そもそも、なろうと思ってなれるものでもないだろう。先生みたいな大人になるには、ある種の才能というか、持って生まれた素質みたいなものが必要なのだ。ぼくにはない、おそらくダリルさんにも……おっと、いまの発言は聞かなかったことにしてほしい。
「これはこれはシグマルディさん」
支配人のベルトラン氏もやってきて、先生の周りはさらに賑やかになった。
「本日はお越しいただきありがとうございます。あなたのおかげで、お客の入りは上々です」
「こちらこそ、お声がけいただきありがとうございます、ベルトランさん」
なごやかに先生と話をするベルトラン氏にちょっと頭を下げて、ぼくは舞台の天井へつづく階段に向かった。初代支配人、老ベルトランの特等席である天井は、ぼくにとっての指定席でもあった。いつもはそこから先生の幻術の手伝いをするのがぼくの役目だったのだが、その晩のぼくは助手ではなく、観客に徹することになっていた。
久しぶりの舞台だからね。そう先生は馬車の中でぼくに告げたのだ。手伝いはいいから、よく見ておくといい。最初から最後までゆっくりとね、と。
助手としての活躍の場があたえられないのは残念だったが、久々の先生の舞台を通しで見られると思うと嬉しくて、いそいそと階段に足をかけたぼくだったが、そこで先生に呼び止められた。
「悪いが、ルカ君、きみのそれ」
先生は自身の目元を指さした。
「今晩はわたしに貸してくれないかい。小道具として使いたい」
はい、とぼくは眼鏡を外し、先生に手わたした。
「どんなものに使われるんです?」
「それは見てのお楽しみだ」
悪戯っぽく笑って眼鏡をかけた先生は、やわらかな黄昏の金をまとっていた。はじめて出会った、あの春の夕べと同じように。
「先生」
とっさに呼びかけてから、ぼくは困ってしまった。何を言いたくて声をあげたのか、自分でもまるでわからなかったからだ。
「……行ってらっしゃい」
わからぬまま、ぼくは無難な言葉を口にした。
「ありがとう、ルカ君」
先生は微笑んでぼくの肩に手をおき、それからすぐに身を翻した。遠ざかる先生の背中を見送りながら、本当は何を言いたかったのかと、ぼくは自分に問いかけたが、答えはいつまでも返ってこなかった。




