第54話 河のほとりで
「そういうときは、まずあいつをぶん殴ればいいんだよ」
焼き栗の皮をむきながら、ダリルさんはいまいましそうにそう言った。
鉛色の空のもと、ぼくとダリルさんは対岸に王宮をのぞむ運河のほとりで風に吹かれていた。河岸に設けられたベンチに並んで腰かけ、屋台でダリルさんが買ってくれた焼き栗の袋で暖をとりながら。
「有無を言わさずがつんと一発。そうでもしなきゃ、あいつの目も覚めないだろう」
なんだかヘレンさんみたいなことを言うな、とぼくは思った。やっぱり好きな人には似てくるものなのか、それとも似ているから好きになるものなのか、などと出口のない考えにふけっていたぼくの頭を、ぽんとダリルさんがたたいた。
「まあ、それができればおまえもそんな顔してないか」
どんな顔ですか、と訊き返す気にもなれず、ぼくは黙って熱い栗の皮をむいた。とりあえず、うんと不景気な顔をしていたことは間違いない。お遣いに出たところでたまたま行き会ったダリルさんが、心配して散歩に誘ってくれる程度には。
先生に王立美術学院の話をもちかけられた晩から、すでに十日ほどが過ぎていた。その間、ぼくと先生は普段と変わらぬ暮らしを送っていた。あくまで表面上は、だけど。
ゆっくり考えて決めればいい。あの晩、先生はそう言って話を締めくくった。入学試験はまだ先だ。まあ早く準備を始めるに越したことはないが、とも。先生は決してぼくに強制はしない。ぼくに弟子入りの誘いをかけたときもそうだった。どうするかはきみ次第だよ、ルカ君──
「先生は悪くないです」
むいた栗を口に入れると、素朴な甘さが舌の上にひろがった。ちょっと残して持って帰ったら先生も食べるかな、なんて考えが頭をよぎり、なぜか一瞬胸がつまった。
「最初から、そういう約束でしたから」
契約は一年。ぼくが先生の弟子のふりをするのはその間だけ。まだ一年には数か月足りなかったが、いずれ終わりがくることに変わりはなかった。
そう、最初から決まっていた。なのに、ぼくは勝手に思い込んでしまっていたのだ。この心地よい時間が、これから先もずっと続くのだと。
「だからって、放りだすことはないだろう」
「放りだされてはないです」
むしろ先のことまで考えてくれてありがたい、と言うしかなかった。契約が切れた後のぼくの身のふり方なんて、先生にはまったく関係ないことなのに。
「それにしたって、言い方ってものがあるだろ。もっとこう、気を遣った伝え方というか」
「すごく気を遣ってくれていたと思いますけど」
「おまえなあ……」
呆れとも憐れみともつかない声が、頭の上にふってきた。
「良い子ぶるのもけっこうだが、たいがいにしておけよ」
「なんですか、それ」
むっとして顔をあげると、微苦笑をたたえた灰色の瞳と目が合った。眼鏡越しのダリルさんは、白い霧をまといながらも、やっぱりいつものダリルさんだった。明るくて頼もしい、洒落た身なりの赤毛の紳士。
「おまえがそうやって物分かりのいいふりをするから、あいつもつけあがるんだよ。いいから思ってること全部口に出してみろ。わがままだとか嫌われるとか、余計なことは考えずにな。そうすれば、少しはましな顔になるんじゃないか」
ぼくはダリルさんから目をそらし、悠々と流れる河を見渡した。ひとときも留まることのない水の流れ。対岸の城壁にひるがえる半旗。ぼんやりとその光景を眺めているうちに、気がつけばぼくは口を開いていた。
「ぼく、やっぱり要らないんでしょうか」
隣でダリルさんが身じろぎしたのが、気配でわかった。




