第53話 ささやかな謝礼
王立美術学院。グラウベン郊外にあるその学校の名を、聞いたことがないという人はあまりいないだろう。言わずと知れた、この国最古の美術学校だ。
あの晩、先生がぼくに差し出したのは、まさしくその王立芸術院の入学案内だった。
「知り合いに、そこの関係者がいてね」
顔をあげた先では、先生が微笑んでいた。いつもと同じ、穏やかな笑み。それがほんの少しよそよそしいものに見えたのは、ぼくの気のせいだったろうか。
「きみの話をしたら、ぜひうちに来たらいいと言って、いろいろ教えてくれたんだ。話を聞くかぎり、なかなかいいところみたいだよ。わりと自由な校風で、教官はみんなひと癖もふた癖もあって……」
先生が何かしゃべっていたが、その半分もぼくの耳には届いていなかった。真っ白になった頭の中に、さきほど読んだばかりの文字がぐるぐると駆けめぐる。王立美術学院初等科。入学資格、十三歳以上……全寮制。
「学費のことなら心配はいらない。生活費もふくめて、卒業まで全部面倒を見るつもりだ。きみのことだから受け取れないなんて言い出すんだろうけど、遠慮は……」
「なんで」
ぼくはとっさに先生の話をさえぎった。
「なんで、そんな……」
その先がつづかなかった。口を開けたまま固まるぼくに、先生は「なんでって」とにこやかに微笑みかけた。
「きみは絵が好きだろう?」
その瞬間、頭がかっと熱くなった。同時に、胸の奥がすうっと冷えた。ぼくはとりたてて勘のいい人間じゃない。だけど、あのときはわかってしまったのだ。ああこの人は今ごまかしたな、と。
ぼくが何に動揺し、何を訴えたかったのか、先生は全部承知の上で、あえてそこを避けたのだ。注意深く、さりげなく、常のごとく落ち着き払った態度で。
「何かを学ぶなら、好きなことを選ぶべきだよ。きみは絵を描いているときがいちばん楽しそうだ。及ばずながら、きみのその熱意を支援させてもらいたくてね」
先生はなめらかに話をつづける。ぼくなどとても付け入る隙のない笑顔で。
「きみはよくやってくれた」
ありふれた誉め言葉は、まるで砲撃のようにぼくの胸をえぐった。
「わたしのくだらない芝居にもよく付き合ってくれたし、助手としても優秀だし、家の中のこともいろいろやってくれて。本当に、感謝しているんだよ。だから、これはわたしからきみへの、ささやかなお礼だよ」
「そんなの……」
そんなもの、どう考えても計算が合いっこなかった。ぼくのたった数か月の働きと、向こう数年分の高額な学費と生活費が同等だなんて。
「きみの気がすまなければ、投資と思ってくれればいい。ほら、芸術家の後援者みたいなものだよ。きみが将来有名な画家になったら、あちこちでこう言ってもらえるかな。今のわたしがあるのもチェンバース家のおかげです、なんてね」
冗談めかした先生の物言いに、いつものぼくだったら笑みを誘われたことだろう。だけど、あのときのぼくには、とてもそんな余裕はなかった。
おかしいと思うだろうか。あるいは、ぼくがとんでもない罰当たりだと? そう思うのも当然だ。さっきから、ぼくは先生を責めるようなことばかり言っているのだから。はたから見たら、先生には責められるべきことなんて何ひとつなかったのに。
寄る辺ない孤児を乱暴な親方の手から救い、家に住まわせ食事をあたえ、さらには大金を投じて将来の世話までしてくれようとしている。どんな慈善家だって、先生ほどのことはなかなかできるものじゃない。
それくらい、ぼくにもちゃんとわかっていた。わかっていて、それでもやっぱり、ぼくは悲しかった。
あのときぼくは、ひどく傷つき混乱して、先生に対して恨みがましい気持ちを抱きさえした。だけど何より、ぼくは悲しかったのだ。先生があまりにも突然に、ぼくの前に「終わり」を示してみせたものだから。
先生がぼくにくれた、明るくて穏やかで心地よい時間。それが期限つきのものであることを、ほかならぬ先生に思い知らされて、ぼくは本当に、どうしようもなく悲しかったのだ。




