第52話 暇つぶしの名手
グラウベンに帰ってからのぼくと先生は、おおむね以前と変わらぬ日々を送っていた。先生は読書と昼寝、ぼくは家事とお茶くみに勤しむ、平和で穏やかな日々を。
とは言え、多少の変化もあった。いちばん大きなものを挙げるとすれば、やはり先生が舞台に立たなくなったということだろう。
こればかりは仕方のないことだった。女王陛下崩御から三月の間は服喪期間ということで、王都中の劇場が休業を命じられてしまったのだから。
新しい国王陛下も先代女王陛下が亡くなられたその日のうちに即位を済ませていたのだが、華々しい即位式は新年になってからということだった。
あの黒いヴェールのご婦人がもうこの世にいないという事実を、その頃のぼくはまだ上手く消化できていなかった。たった一度、それもひどく奇妙な出会い方をしたあのご婦人は、ぼくの胸のうちにまだ居座りつづけていた。あの暗く、閉ざされた部屋で。
きっとまた会うでしょう。イザベラ女王はたしかにそう言っていた。だって、あなたたちは“鍵番”ですもの、と。
どことなく落ち着かないぼくの気持ちをよそに、月日はたゆまず流れつづけ、季節は一日ごとにその深さを増していった。冷たい風が木々の葉を落とし、道行く人々の首をすくめさせる。そんな王都の秋を、先生はもっぱら暖炉の炎がおどる居間の長椅子の上で過ごしていた。
「まあ、わたしは失業中の身だから」
わりと深刻な台詞を呑気な調子で口にしながら、先生はごろごろと──もとい、悠々とぼくが淹れたお茶を飲んでいた。先生ほど暇つぶしに長けた人を、ぼくは他に知らない。毎日毎日、有り余るほどの時間をまったく持て余すふうもない先生は、まるで退屈そのものを楽しんでいるように見えたものだ。
「飽きませんか」
ある晩、ぼくはふと先生に尋ねてみた。例のごとく長椅子で寝そべって本を読んでいた先生は、何がと言いたげな視線をぼくによこした。
「それ」
ぼくは持っていた鉛筆の先を先生の本に向けた。
「昨日からずっと同じものを読んでますよね」
それもぼくが見るかぎり、先生はだいたい同じところを読んでいて、ちっとも先に進んでいないようだった。
「良書というものは、いくら読んでも飽きないものだよ」
先生はすました顔をそう返すと、ぱたんと本を閉じて身を起こした。
「きみこそ、よく飽きないね」
それ、と今度は先生がぼくの手元を指さした。
「もう三日も同じものを描いているだろう」
「……すみません」
「いや、謝らなくてもいいんだが」
先生は首をかしげて白い髪をかき上げた。
「おもしろいかい? それ」
ぼくは抱えていたスケッチブックに目を落とした。いろんな角度から描いた、そしてどれも中途半端に終わっている先生の顔のスケッチに。
「おもしろいです」
グラウベンに帰ってからの変化その二。それはぼくが先生のスケッチを始めたことだった。いつか、と約束したとおり、先生の肖像画を描くための第一歩として。
「どれ」
テーブルからお茶のカップを取り上げると見せかけて、ひょいとスケッチブックをのぞきこもうとした先生を、ぼくは慌てて止めた。
「だめですって!」
「そうもったいぶらず、画伯」
お得意のちょっぴり意地悪そうな笑みを浮かべ、先生は冷めたお茶をひと口飲んだ。
「わたしには見る権利があると思うんだがね」
まったくもっておっしゃる通りだったが、ではどうぞ、というわけにはいかなかった。描きなれた風景画ならともかく、いかんせんぼくにとってほぼ初めての人物スケッチは、とうてい他人様にお見せできるような代物じゃなかったからだ。
「うまく描けたら、お見せします」
スケッチブックを抱きしめるぼくを、先生はおかしそうに眺めやった。
「いまだって充分うまいだろうに」
「そんなことないです」
先生のスケッチを始めて、気づいたことがある。ぼくは、絵が下手だということだ。いや、これは謙遜なんかじゃない。本当に、あの頃のぼくときたら下手も下手、基礎も何もなっちゃいない、まるきりの素人だったのだ。まあ、今がそれほど上等かと問われれば、やっぱりそうでもないけどね。
「なら、ルカ君」
先生は床に積んであった本の山から一枚の紙をひろい上げ、ぼくに差し出した。
「仮にも師としては、弟子の上達を手助けしないわけにはいかないからね」
戸惑いつつもぼくはその紙を受けとり──目に飛び込んできた文字に愕然とした。




