第51話 それぞれの帰宅
あの年、王都グラウベンの秋を彩っていたのは落葉の黄でも紅でもなく、重く厳粛な黒だった。街のいたるところに黒い弔旗がひるがえり、道行く人々は黒いリボンやタイを身につけて女王陛下への弔意を示していた。
王都の停車場に降り立った先生は、そのままダリルさんの馬車でチェンバース邸に連行された。
うん、あれはまさしく「連行」という言葉がふさわしかった。もともとダリルさんは先生が「とんずらしないように」──ダリルさんが実際に口にしていた言葉だ──わざわざグレンシャムまで先生とぼくを迎えに来てくれたのだった。
もっとも、先生がちょっぴり意地の悪い笑みとともに漏らしたとおり「われわれの迎えなんて物のついで」で、本当の目的は別にあったのかもしれないけど。ダリルさんの四度目だか五度目だかの挑戦がどうなったかは……まあ、ご想像におまかせしよう。
とにかく、ダリルさんは帰りの汽車の中でもずっと先生から目を離さず、あげく「いざとなったらおまえも協力してくれ、ルカ坊」なんてぼくに耳打ちする始末だった。
だけど、それについては残念ながらお約束しかねる、というのが正直なところだった。いざとなったら、ぼくは先生を止めるどころか一緒に「とんずら」したに決まっていたからね。いつかの園遊会の日みたいに。
ダリルさんにとって幸いなことに、先生は最初から逃げる気なんてなかったようで、停車場の広場で待っていた黒塗りの馬車におとなしく乗り込んだ。同じく広場に馬車を停めていたキャリガン氏に、ぼくと荷物を預けて。
「明日の朝までには帰るからね」
そう言い残して去っていく先生を、ぼくは何となく心細い気持ちで、そしてキャリガン氏は常のごとく寡黙に見送った。
先生がどうしてチェンバース邸へ行く必要があったのか、実のところぼくは知らない。先生に訊いても「いろいろあってね」とはぐらかされるばかりだったし、ならばとダリルさんに当たっても「まあいろいろとな」と歯切れの悪い回答しか返ってこなかったのだ。こういうところ、大人はずるいなと今でも思う。
先生とダリルさんと別れて、ぼくはほぼ二か月ぶりに家に帰った。本当のところ、グラウベンの家は先生の家であってぼくの家ではなく、したがって「帰る」という表現も正確ではないのだが、もうその頃のぼくにとって、あの家は「わが家」以外の何物でもなかった。いつもそこにあって、いつでも帰ることができる、安らぎと幸福の象徴。
先生の家。そこはまぎれもなくぼくの家でもあり、そして──こんなことを口にするのは、ちょっと照れくさいけれど──先生はぼくの家族だった。いつもぼくたちを送り迎えしてくれるキャリガン氏も、それから「まあまあ坊ちゃん、しばらく見ないうちに大きくなって!」と手をひろげてぼくを迎えてくれたキャリガン夫人も。
先生があらかじめ依頼してくれていたらしく、その晩キャリガン夫妻は夕食まで一緒にいてくれた。まだグレンシャムでの不気味な体験を引きずっていたぼくにとって、二人の存在はこの上なくありがたく、心強かった。
久しぶりの夫人の賑やかなおしゃべりは、ともすれば沈みがちなぼくの気持ちを明るく引き立ててくれたし、初めて一緒に食卓を囲んだキャリガン氏は、ぼくがグレンシャムで釣り上げた魚の大きさについて熱心に語っているあいだ、ずっと穏やかな目でぼくを見守ってくれていた。
楽しい夕食が終わって、いささか高揚した気分のままベッドにもぐり込み、次にぼくが目を覚ましたのは夜明け前だった。
ぼくはベッドの上で身を起こし、窓の外にひろがる薄紫色の空を眺めた。
何か、夢を見ていた気がしたが、どんな夢だったかはさっぱり思い出せなかった。少なくとも悪い夢ではなかったはずだが、そのわりに胸の奥がちくちくと痛むような、自分でもよくわからない気持ちを持て余していた。
しばらくぼんやりとガラス越しの空を眺めてから、ぼくはベッドから降りた。台所で水を飲もうと、部屋を出て二階まで降りたところで、ぼくは何の気なしに居間をのぞき、そして立ち止まった。
薄暗い居間の、窓辺に配置された長椅子に、じっと座り込んでいる人影があった。長い手足を折りたたむように身をかがめ、組んだ指の上にあごをのせているその人は、古い屋敷に取り残された彫像のように見えた。
「……先生」
思わず呼びかけると、その人影は眠りから覚めたように肩を震わせ、ぼくのほうを見た。まぶしいものでも前にしたときのように、ほんの少し顔をしかめて。
「先生」
いつ帰ってきたんですか。なんでそんなところにいるんですか。ちゃんと寝ましたか。もしかしてお腹すいてませんか……かけたい言葉が次々と頭に浮かび、泡のようにはじけて消えた。時間にしてほんの二、三秒、ぼくは口ごもり、ようやくふさわしい言葉をすくい上げた。
「おかえりなさい」
ちょうど昇りたての太陽が窓から顔をのぞかせ、居間を清潔な光で満たした。透けるような黄金につつまれて、先生はやわらかく微笑んだ。
「ただいま、ルカ君」




