第49話 やさしい時間
「ほら、これでも飲んで落ち着きな」
そう言ってヘレンさんが差し出してくれたのは、蜂蜜入りのホットミルクだった。湯気の立つカップを両手でつつむぼくの前で、ダリルさんが不服そうな目でヘレンさんを見上げた。
「おれの分は?」
「あるわけないだろ。なに甘ったれてんだい」
遠慮のない罵倒を返して、ヘレンさんはダリルさんの隣に腰を下ろした。
「客にむかってひどい言い草だな」
「開店前に押しかけてくるのを客とは言わないんだよ。ああルカ、あんたはいいんだよ。気にしないでおあがり」
小さな声でお礼を言って、ぼくはミルクをひと口飲んだ。喉をすべり落ちる温かな甘さが、身体の強張りをゆるゆると溶かしていってくれるようだった。
開店前の“緑の獅子”亭。その客席の隅っこで、ぼくはダリルさんとヘレンさんに囲まれていた。クレイ館から飛び出してきたぼくを、ダリルさんが馬車で連れてきてくれたのだ。
あのとき、手がつけられないほど怯えていたぼくを見て、ダリルさんはてっきり館に泥棒でも入ったのかと思ったのだそうだ。ぼくを御者の人にあずけて館の中へ踏み込もうとしたダリルさんを、それこそ死にもの狂いでぼくは止めた。
行っちゃいけない、行っちゃだめだと、泣きながら外套の裾をつかむぼくに、とうとうダリルさんは根負けして館を離れてくれた。我ながらずいぶん恥ずかしい真似をしたものだが、これはもう仕方ない。
もし、ダリルさんが館へ入って、そのまま引きずり込まれたら? そんな想像がちらとでも頭をよぎった以上、何がなんでもダリルさんを行かせるわけにはいかなかったのだ。
「誰かが中にいるわけじゃないんだな? 誰かが倒れているとか、助けが要るとか」
それだけをぼくに確認して、とりあえずダリルさんは“緑の獅子”に馬車を走らせてくれた。ダリルさんが勢いよく店の扉を開けたとき、客席の掃除をしていたヘレンさんが箒を振り上げたのは、突然のことでヘレンさんもびっくりしたからであって、けっして相手がダリルさんだったからじゃない……と思う。
「それで? ルカ坊」
正面に座るダリルさんが、ぼくの顔をのぞきこんだ。
「いったい何があったんだ」
「馬鹿」
すかさずヘレンさんがダリルさんの頭に拳骨を落とした。
「いきなり何するんだ!」
「それはこっちの台詞だよ。相変わらずひとの都合ってものを考えない男だね。この子が落ち着くまで待ってやることもできないのかい」
「いや、それはわかっているが……」
「わかってるなら黙ってな」
すごいな、とぼくはカップをかかえて目の前の「赤」の競演に見入っていた。踊る炎のような、輝く夕陽のような、そんな赤が交じり合うさまは素晴らしく綺麗で温かかった。
「あの」
ぼくはカップをテーブルに置き、二人に頭を下げた。
「ぼく、もう大丈夫です。すみませんでした。その、ご迷惑をかけて……」
「あんたも馬鹿だねえ」
今度はぼくの頭に拳が落ちてきた。さっきのダリルさんに対する「ごつん」に比べれば、「こつん」くらいの優しさだったけど。
「べつに迷惑だなんて思っちゃいないよ。あたしも、こっちのうすら馬鹿もね。ただ心配しただけさ」
うすら馬鹿、と憮然とした面持ちでつぶやいたダリルさんの横で、ヘレンさんは深緑の瞳を細めた。
「何があったか知らないけど、とにかくあんたが無事でよかったよ」
不意に鼻の奥がつんとして、ぼくはとっさにうつむいた。まったく、ヘレンさんには一生かかっても敵いそうにない。たぶんダリルさんも同じだろうけど。
ぐずぐずと鼻をすすりながら、ぼくは残りのミルクを飲んだ。今度こそ大丈夫だと顔を上げられるようになるまで、ゆっくり時間をかけて。




