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黄昏の幻術師  作者: いろは
第四章
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第44話 戦場の画家

「きみに話していないことがある」


 ぼくを負ぶったまま、先生は語りだした。先ほどより少しだけ歩調をゆるめて。


「いくつか……いや、たくさんだね。おかげでずいぶんきみを傷つけた」


 ひと呼吸おいて、先生はその言葉を吐き出した。


「すまなかった」


 淡々とした謝罪は、ぼくに対してというより、その場にいない別の誰かに向けられているように思えた。先生といると、よくそういうことがあった。すぐ側にいるのに、先生だけ違う場所にいるような心持ちにさせられることが。


「先生」


 だから、ぼくはいつものように先生を呼んだ。先生がこちらに帰ってきてくれるように。


「謝らなくていいです」


 言ってしまってから後悔した。これじゃまるでねた子どもみたいじゃないかと。まあ実際そんなものだったんだろうけど。


「先生は、知ってたんですか。ぼくの、その……」


 父さん、と口にするのはいささか気恥ずかしく、言葉を濁したぼくに、先生は「そうだよ」と答えた。


「知っていた。ひと冬ばかり一緒だったよ。ヘレンから聞いただろう? わたしもあの戦争に参加していてね、配属された部隊に彼がいたんだ」


 先生が戦争に行っていたという事実に、ぼくはあらためて驚かされた。なぜって、穏やかな先生と物騒きわまりない戦争という言葉が、どうしてもぼくの中で結びつかなかったから。ぼくは軍服姿の先生を思い浮かべようとしたが、どうにもうまくいかなかった。ダリルさんならすごく簡単に想像できたのだけど。


「彼は衛生兵でね。衛生兵は知っている? 怪我人の手当てをする兵士のことだよ」

「お医者さんですか」

「似ているけど、ちょっと違うな。軍医は別にいるからね。医者の助手みたいなものだよ」


 つまりぼくみたいな人のことか、とぼくは先生の背中で勝手に納得していた。幻術師の助手で、魔法使いの──先生に魔法を教えてもらったことはないけれど、いちおう──弟子で、ついでに厨房の下働き。


「絵を描くのが好きだったね」


 みな、同じことを言うのだ。ぼくの父は絵を描く人だったと。


「いつも手帳を持ち歩いていて、暇さえあればそこに何かを描いていた」


 そこで先生は思い出したように小さく笑った。


「きみによく似ていた」

「ぼくに?」

「そう。そっくりだよ。とくに世話好きなところが」


 正確に言うなら父が、ではなく、ぼくが父に似ているのだろう。だけど、先生が評したとおり「酔っ払い」だったぼくには、ささいな(でもないけれど)違いなどどうでもよく、その後は思いつくまま、父についてのあれこれを先生に尋ねた。


 オリヴァ・クルス。先生が語ってくれたところによると、他人ひとの世話を焼くのと絵を描くことが好きな衛生兵。髪は黒で、瞳は薄い紫色。背丈は先生と同じくらい(これは朗報だった。ぼくにはまだまだ背が伸びる可能性がある!)。


「人好きのする男だった」


 つぶやくように先生は言った。


「ひねくれ者のわたしでも、けちのつけようがないくらいに。本当に、誰からも好かれる男だったよ」

「……先生も、ですか」


 少しためらった末、ぼくは思いきって尋ねてみた。オリヴァという名の、ぼくの父。おそらくもうこの世界のどこにもいないその人を、先生も好きでいてくれましたか、と。


 そうだねえ、と先生は言葉を探すように夜空を見上げた。


「最初はあまりいい印象じゃなかったね」

「え……」

「最初はね。その後まあ、いろいろあった」


 そのいろいろについてはまた今度、と先生は話を締めくくった。


「もう夜も遅い。きみも疲れているだろう。今日のところは大人しく寝たほうがいい」


 はぐらかされた、と思わないでもなかったが、実際ぼくはくたくたで、いいかげんベッドが恋しくもあった。それに、はぐらかしたという点では、ぼくも同罪だったのだ。

 オリヴァという人について、ぼくはいろいろと先生に尋ねはしたが、いちばん確かめたいことは最後まで口に出さずじまいだったのだから。


 そう、ぼくは何より先生にこう訊きたかった。先生がぼくを弟子にしてくれたのは、ぼくがオリヴァ・クルスの息子だからですか、と。


 喧嘩もさせてくれない、とヘレンさんは先生を非難していたが、責められるべきはぼくのほうだった。ぼくは先生と喧嘩をするのが怖かった。ぼくの疑念を、先生に肯定されるのが怖かった。


 それまでぼくは、先生がぼくを何となく気に入って弟子にしてくれたのだと思っていた。誰かの息子だからでなく、ぼくの不可思議な眼のせいでもなく、ぼく自身に先生の気を惹く何かがあったのだろうと、つまりは自惚うぬぼれていたわけだ。その思い込みを否定されたくなくて、ぼくは当たり障りのない問いばかりを選んで先生に投げていたのだった。


「ちゃんと話してくれます?」


 自分の意気地のなさを棚に上げて念押ししたぼくに、先生は「約束する」と返してくれた。


「ちゃんと伝えるよ」


 それならいいか、とぼくは先生の肩に頭をあずけ、胸底の思いにふたをするようにまぶたを閉じた。

 なんだか急に重くなったね、とぼやきながら先生はぼくの身体を揺すり上げ、それからは無言でクレイ館までの道のりを歩いた。月明りに照らされた、湖のほとりを。





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