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黄昏の幻術師  作者: いろは
第四章
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第40話 湖畔の館

 そのときぼくが受けた衝撃を、言葉にするのはとても難しい。無理に例えるなら、足元の敷石がぱっくり割れて、そのまま地面に呑み込まれるような、とでも言ったらいいだろうか。まあ実際そんな目にあったことはないけれど。


「ヘレン」


 呆然と立ちすくむぼくの横で、先生がとがめるような声をあげた。


「きみは性急すぎる」

「あんたが鈍間のろまなんだよ、アーサー」


 先生の抗議をはねつけて、ヘレンさんはぼくらの荷物を荷馬車へ積み込みはじめた。先生はかるく頭をふり、ぼくに「ちょっと待っておいで」と言い残して荷運びに加わった。


「……先生」


 ぼくの声に、先生はふりむいてくれなかった。荷運び人(ポーター)にチップを渡すのに気をとられていたせいかもしれない。あるいは、夕暮れの風がぼくの声をどこかへ運んでしまったのかもしれない。いや、どちらも違うだろう。先生の耳に、ぼくの声はちゃんと届いていたはずだ。だけど先生に応じる気はなかった。それだけだ。


 オリヴァの息子。ヘレンさんはそう言った。緑の瞳でぼくを見据えて。その瞳に、声に、いささかの迷いもなかった。そのせいだろう。最初の衝撃が去ったあと、ぼくはすでにヘレンさんの言葉を事実として受け容れていた。そうか、ぼくの父親はオリヴァというのか、と。


「ルカ君」


 ぼくがぼうっと突っ立っている間に、荷物は残らず荷馬車に積み込まれていた。ヘレンさんは御者席で手綱を握り、先生は荷台のへりに腰かけてぼくを手招きしていた。


「おいで」


 ぼくはのろのろと荷台によじのぼり、先生の隣に腰を下ろした。走りだした荷馬車の上で、ぼくも先生もしばらく無言だった。


「先生」


 先に沈黙をやぶったのはぼくの方だった。うん、と今度はすぐに返事があった。まだ先生の顔を見る気になれなかったぼくは、正面を向いたまま、その問いを口にした。


「なんで教えてくれなかったんです」


 先生を責めるような言い方をしてしまったのは仕方ないだろう。あのときぼくは、少なからず傷ついていた。先生がヘレンさんの言葉にまるで驚きを見せなかったことに。


「すまなかった」


 それは、ぼくがいちばん聞きたくない言葉だった。謝罪は、すなわち肯定だったからだ。先生がぼくの父を、ぼくの父の名を知っていたことの。知っていて、それをぼくに黙って──隠していたことの。


 ぼくが怒っていたかって? もちろん、それもあった。だけど、あのときのぼくの感情は、そんなにわかりやすく整理できるものじゃなかった。裏切られた、という表現は感傷的に過ぎるかもしれない。だけど、とにかく先生に隠し事をされていたことが悲しくて悔しくて、先生への不信と不満ではち切れそうで、つまりぐちゃぐちゃだったわけだ。まるで煮込みすぎたシチューみたいに。


 混乱しきった頭の中とは対照的に、目の前を流れていく景色は端正で美しかった。薄雲たなびく水色の空のもと、ゆるやかに広がる緑の牧草地。その先に、最後の夕陽を浴びてきらきら輝く水面が見えた。クレイ湖だ。


 先生の持ち家は湖のほとり、背後に山々を従えてたたずむ石造りの館だった。その名もずばりクレイ館。汽車の中で先生からその名を教えてもらったとき、いい名前ですね、とぼくは返したものだ。簡潔で覚えやすいと。あの楽しかった時間が嘘のように、荷馬車の上では気づまりな沈黙がつづいていた。


 黙りこくったぼくらを乗せたまま、荷馬車はがたごとと進み、やがて湖畔の館にたどりついた。遠目に見るよりずっと大きく、長い歴史を感じさせる建物は、館というよりちょっとしたお城のような風格を漂わせていた。


「掃除は西翼の一階だけしといたよ」


 荷物を荷馬車から玄関に運びながら──今度はぼくも手伝った──ヘレンさんが言った。


「こんな広いところ、どうせあんたたちだけじゃ使いきれないだろ」

「充分だよ。ありがとう、ヘレン」


 いつもと同じように、先生はにこやかに応じた。


「食料も適当に運んでおいた。でも、どうせあんた料理なんてしやしないだろう。明日からは村の人間が交代で来てくれることになっているけど、とりあえず今晩は店に来るといいよ。そっちの──」


 ルカ、とヘレンさんはぶっきらぼうにぼくの名を呼んだ。


「あんたも。いろいろ訊きたいことがあるんだろ? あたしが知っていることは全部話してあげるよ。そっちの鈍間のろまのかわりにね」


 その日二度目の鈍間呼ばわりされた先生は、気を悪くしたふうもなく微笑んだ。


「何から何までありがとう。ところで、きみはこれからどうするんだい」

「店に行くに決まってるだろ」

「だったら、ついでにわたしたちも乗せていってくれないか。どうせ行くところは同じなんだし」


 先生の依頼は合理的で、ぼくにとってもありがたかった。あんな重苦しい空気をかかえたまま、先生と二人きりになりたくはなかったからだ。たぶん先生も同じ気持ちだったことだろう。


 ヘレンさんは腰に手をあてて先生とぼくを見比べ、ふんと鼻を鳴らした。


「手のかかる男どもだね」


 まったくもって、おっしゃる通りだった。



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