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黄昏の幻術師  作者: いろは
第三章
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第31話 腹が減っては何とやら

 部屋を満たした黄金の光は、ぼくがまばたきをする間にかき消えた。まるで最初からそんな光などなかったように、室内は相変わらず陰鬱な薄闇に沈んでいた。だけど、さっきとは決定的に違うことが一つあった。先生がその場に、ぼくのすぐ側に立っていてくれたことだ。


「先生……」

「やあルカ君」


 ぼくが見上げた先で、先生は微笑んだ。いつもの午後、居間にお茶を運ぶぼくを迎えるときのように。


「遅くなって悪かったね。だいぶお腹もすいたんじゃないかい」

「すきましたけど……」


 思わず正直に返してから、そんな呑気なやりとりをしている場合かな、とぼくは内心首をかしげたのだが、先生はすました顔で「わたしもだ」とうなずくと、老婦人に向き直った。


「というわけで、わたしたちはこのへんで失礼させていただきます。なにぶん空腹にはあらがえませんので」

「アーサー」


 ぼくを促してきびすを返しかけた先生を、老婦人の声が押しとどめた。


「久しぶりに顔を見せてくれたというのに、ずいぶんな態度だこと」

「そういうお約束だったはずでしょう。あなたに力をお貸しする代わりに、あなたは今後一切わたしに干渉しないと。今回の件は明らかな契約違反だ」

「あら、あなたに手出しはしていないわ。そこの可愛い坊やをお招きしただけよ」

「同じことです。この子はわたしの弟子ですから」

「知っていますとも。でも、その坊やがあなたの持ち物というわけでもないでしょう?」


 そうそう、と貴婦人は思い出したように手を打った。


「今度、新しい法案が通るのよ。徒弟制を盾にして、見習いの子どもを好き勝手に扱う親方が多いのだとか。そういう人たちには考えを改めてもらう必要がありますからね」

「それはすばらしい。ついでに、誘拐罪の厳罰化もご検討いただけますか。最近どうも子どもをさらう不届き者が増えているようですから」

「それは初耳だわ。本当ならすぐに手を打たないと」


 表面はなめらかな、だけど裏はちりちりと毛羽立っているような応酬は、いつかの闇色の紳士と先生の対話に似ていた。あのときと違うのは、目の前のご婦人が先生との会話を楽しんでいるふうだったことだ。先生のほうはまるで逆だったみたいだけど。


「仕方ないわね」


 化かし合いのようなやりとりを、先に打ち切ったのは老婦人だった。


「名残り惜しいけど、今日はこれでお開きにしましょう。坊やの顔を見られただけでもよかったわ。ね、坊や、次はもっとゆっくりお話ししましょうね。あなたの前だったら、王宮の門はいつでも開いてよ。もちろんアーサー、あなたに対してもね」


 王宮、という言葉にぎょっとしたぼくだったが、先生は平然と、そして冷ややかに「あいにくですが」と応じた。


「次というものはありません」

「それはどうかしら」


 黒いヴェールで顔を覆い、椅子に沈みこむ貴婦人は、予言者めいた言葉を先生に返した。


「わたくしたちは、近いうちにきっとまた会うでしょう。だって、あなたたちは“鍵番”ですもの」


 先生は黙って老婦人を見つめ、ゆるく頭をふった。その仕草が老婦人の言に対する否定なのか、それとも肯定なのか、ぼくには判断がつかなかった。


 無言のまま先生は老婦人に会釈をし、ぼくの肩にそえた手にかるく力をこめた。自然と回れ右をする格好になったぼくは、そこで目に飛びこんできたものに仰天した。ぼくがあれだけ探しても見つけられなかった扉が、壁の一角に姿を現していたのだ。


「なんで……」


 唖然とするぼくに、先生はとっておきの手品を成功させた奇術師のような笑みをくれると、さっさと扉に歩みよった。


「ごきげんよう、わたくしの英雄さん。坊やも」


 背中にかけられた老婦人の声にふりむくことなく、先生は扉を開けた。途端にまばゆい光がぼくの目を貫く。ぼくはぎゅっとまぶたを閉じ、それから先生と一緒に扉の向こうへ足を踏み出した。




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