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黄昏の幻術師  作者: いろは
第三章
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第28話 名前を知らない友人

 目が覚めたとき、ぼくは薄闇の中にいた。一度開けたまぶたを閉じ、また開ける。それを何度か繰り返し、靄がかかったような頭で記憶をたぐる。園遊会。チェンバース邸。老執事と従僕。それから──


 ──先生。


 がばりと身を起こしたぼくは、ひどい目眩に襲われて頭を膝の間にうずめた。捕まったときに嗅がされた薬のせいだろう。鼓動が早く、頭が鉛のように重い。ぼくは大きく深呼吸をしながら、自分の置かれた状況を必死に整理した。


 ぼくが寝かされていたのは大きな長椅子だった。ふっくらと詰め物がされたその椅子のおかげか、身体のどこにも痛みはない。そろそろと動かしてみた手足にも違和感はなく、これなら大丈夫、と顔をあげたときだった。


「こんにちは、坊や」


 暗がりの中で、しわがれた声がした。年老いた、だけどしっかりと芯の通ったご婦人の声だった。


 はじかれたように立ち上がったぼくは、しかしすぐによろけてしまった。とっさに長椅子の背をつかんで身体を支え、声のした方に目をやると、厚いカーテンが降りた窓を背にして椅子に沈みこむ人影が見えた。


「あなたが、新しい“鍵番”ね」


 質問ではなく、断定の言葉を投げかけるその人を前に、ぼくは声もなく立ちつくした。


「そんなにおびえなくてもいいのよ、坊や」


 椅子に沈む人影が、ゆったりと語りかける。だけどぼくとしては、はいそうですかと警戒を解くわけにはいかなかった。


 どくどくと脈打つ鼓動をなだめながら、ぼくは部屋を見わたした。そこは先生の家の居間よりいくぶん広く、そしてずっと豪華な部屋だった。日の光をさえぎる厚いカーテンに、ふかふかの絨毯。同じくふっくらと詰め物がされた椅子と、優美な曲線を描く脚のテーブル。火のない暖炉を囲むマントルピースは白い大理石で──


 そこまで見てとったところで、ぼくの心臓が再び跳ね上がった。こんな状況でなければ居心地がよいとさえ思えるその部屋には、あるべきものが欠けていた。


「扉は要らないのよ」


 ぼくの心を読んだように、老婦人は言った。


「ここはわたくしの秘密の応接間なの。親しいお友達だけを招いて、内緒の話をするためのね。誰でも入ってこられるようでは困るのよ。お客様に勝手に帰られるのもね。だから、扉はないほうがいいの。そのほうがゆっくりお話できるでしょう?」


 ね、坊や、と。親しげに呼びかけるご婦人のまわりには、例のごとくうっすらと白い霧が漂っていたが、眼鏡を外してその「色」を確かめる気にはなれなかった。


 ガラス越しの目に映るその人は、一見して高貴な身分とわかるご婦人だった。年齢としはおそらく、ぼくの亡くなった祖母と同じくらい。小柄でふくよかな身体を黒いドレスにつつみ、結い上げた白い髪に黒いヴェールつきの帽子を載せている。そのヴェールのせいで顔はよく見えなかったが、少なくとも、その貴婦人がぼくの見知った人でないことは明らかだった。


「まずはお座りなさいな、坊や」


 老婦人は身ぶりでぼくに促した。


「お友達を立たせておくのは心苦しいわ」

「……ぼくは」


 かすれた声が喉にからみ、ぼくは咳ばらいをした。


「すみませんが、ぼくは、あなたの友達じゃありません」


 老婦人の顔にかかるヴェールが揺れたが、ぼくはかまわず続けた。


「ぼくは、あなたのお名前も知りません。そういうのは、友達とは言わないと思います」


 ぼくの発言、ぼくの態度が、たいそう礼を失していたことは認める。だけど後悔はしていない。それだけ、ぼくは怒っていたのだ。


 先生と引き離され、一人だけ訳のわからない部屋に連れて来られて、ぼくはひどく混乱していたし、怯えもしていた。それらの感情を、十二歳のぼくは怒りという形で目の前の人間にぶつけるしかなかった。それ以外に、自衛のみちを知らなかったのだ。


「……まあ」


 薄闇を透かして、笑いの波が伝わってきた。


「はっきり物を言う坊やだこと。さすがは、あの子のお弟子さんといったところかしら」


 後半の台詞に、ぼくのお腹のあたりがすうっと冷たくなった。嫌な予感に背中を蹴飛ばされ、ぼくは一歩足を踏み出した。


「先生はどこですか」

「怖い顔はおやめなさいな、坊や。あなたが心配することは何もないわ。あの子に危害を加えられる人間なんて、そうはいませんからね。なんと言っても、あの子はわたくしの英雄ですから」


 英雄。その仰々しい響きの言葉を、ぼくが消化するより先に、ご婦人はふたたび口を開いた。


「わたくしは、イザベラ」


 あっさりと名乗られて、ぼくはいささか気勢をそがれた。戸惑いつつも自分の名を口にしようとしたぼくに、老婦人はかすかに首をふってみせた。それはもう知っていると言うように。


「これで、わたくしたちもお友達になれたかしら。小さな“鍵番”さん」


 黒いヴェールの向こうで、その貴婦人は笑ったようだった。



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