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黄昏の幻術師  作者: いろは
第三章
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第22話 財布の秘密

「美味いな、これは」


 チョコレートケーキを一口かじるなり、赤毛の紳士は感心したように目を見張った。


「茶も上物だ。おまえ、いつもこんないい思いをしているのか? つくづくけしからんやつだな」

「なんできみに責められなきゃいけないんだ」


 あきれ顔で先生は応じ、客人の前からケーキの皿を遠ざけてぼくのほうへ押しやった。


「こんなやつにまで出してやることはなかったんだよ、ルカ君」


 はあ、とぼくは笑ってごまかした。お茶は、結局三人分用意して居間に運んだ。いくら先生の指示とはいえ、お客を放っておいて自分だけお茶を楽しむなんて芸当は、ぼくにはとても無理だった。たぶん先生なら優雅にやってのけるのだろうけど。


「みんなで食べたほうが美味しいですから」

「おい、いい子じゃないか。アーサーおまえ、どんなうまいこと言ってこいつをたぶらかしたんだ?」

「それ以上ふざけた口をきくと叩き出すよ、ダリル」


 言葉はきつかったが、先生が赤毛の紳士に気を許しているのは明らかだったので、ぼくは安心してケーキを頬張った。まだほのかに温かいケーキは、文句なしに絶品だった。


「ルカ君、このうっとうしい男はわたしの従弟いとこでね。ダリル・チェンバースという」


 ぼくはあやうくケーキを喉につまらせるところだった。チェンバース。それはあの闇色をまとった紳士の名だったはずだ。


「うっとうしいとは何だ」

「暑苦しいのほうがよかったかな。きみとは夏に会いたくないね」


 ケーキのかけらを呑み込んで、ぼくは「先生」と小声で呼びかけた。


「チェンバースって、あの……」

「ああ、わたしの一族だよ。前に話しただろう?」


 なんでもないことのように返す先生に、赤毛の客人は何か言いたげな視線を送り、だけど何も言わずに二切れ目のケーキに手をのばした。


 先生の一族。たしかに先生はあの紳士をチェンバース卿と呼び、一族の長老格だと説明してくれた。そして、ぼくの目の前で黙々とケーキを平らげている──ぼくのお代わり分が残るか心配だった──ダリルさんもチェンバースで、なおかつ先生の従弟だという。


 だったらなんで、とぼくはひそかに思った。どうして先生はチェンバースじゃなくてシグマルディなんだろうと。それから、あの闇色の紳士と先生はいったいどんな間柄なのだろうと。さすがにこんな立ち入ったこと、とても口には出せなかったけれど。


「従弟といっても年は同じだけどね」

「そうとも。だからおまえに兄貴(づら)される筋合いはない」

「きみみたいにわずらわしい弟分なんて、こっちから願い下げだよ。なんだっていつも突然押しかけてくるんだい」

「おまえのせいだろうが」


 最初の怒りを思い出したように、ダリルさんは憤然とカップを置き、ふところから何かを取り出して先生に突きつけた。


「これはなんだ、アーサー」

「財布だな」

「そんなことはわかっている!」


 テーブルにたたきつけられた財布を見て、ぼくの脳裏によみがえったのは、夕闇に沈む裏通りの光景だった。ごくありふれた黒革の財布。それはおそらく、いや間違いなく、先生が印刷所の親方に放った、十ダカット入りの財布だった。


「おれが訊いているのはだな、なんだってこの財布が質屋の店先に並んでいたのかってことだ」

「なんだきみ、質屋になんて出入りするのかい。チェンバース家の跡取りともあろう男が」

「ここに来る途中たまたま見つけただけだ。それに、家督の件を了承した覚えはない」

「またそんなわがままを。いいかげん覚悟を決めたらどうだい」

「その言葉、そっくりそのままおまえに返してやる」

 

 ひきつった顔で先生に指を突きつけたダリルさんに、ぼくはたまらず「あの」と声をかけた。


「すみません、それ、ぼくのせいなんです。ぼくのせいで先生はそれを手放すはめに……」

「きみのせいじゃない」


 やわらかな声が、ぼくの言葉をさえぎった。


「あの金について、きみが気にする必要はないと言っただろう? そこのうるさいのは放っておきなさい」

「おい」


 眉を跳ね上げたダリルさんに、先生はソートン通りでの一件について簡単に説明した。


「なんだ」


 話を聞き終えたダリルさんは、拍子抜けするくらいあっさりとうなずいた。


「そういうことなら先に言え」

「話す前に怒り出したのはきみだろう」


 あきれ顔でそう返し、先生は財布を取り上げた。


「種明かしをするとね、ルカ君、この財布は持ち運びのできる金庫みたいなものなんだよ」

「金庫……」

「そう。たとえばいま、一ダカット必要だとする。すると、ほら」


 先生の長い指が、財布の中からぴかぴかのダカット金貨をつまみ上げた。


「こんなふうに、財布の中に金が現れるというわけさ。ああルカ君、残念ながら、金貨がざくざく湧いて出るような代物じゃない」


 ぼくが真っ先に思い浮かべたものを、先生は正確に言い当ててみせた。


「金庫から財布に金が移動するだけだ。金庫の金が尽きれば、そこでおしまい」


 先生の指が金貨をはじく。きれいな弧を描いて飛んできた金貨を、ぼくは両手で受けとめた。生まれて初めて手にするダカット金貨は想像していたより小さく、だけどしっかりした重みをもって、ぼくの手の中できらめいていた。


「どうせなら本家の金庫につなげばよかろうに。使いたい放題だぞ」

「冗談でもやめてくれ。わたしの出費がむこうに筒抜けになるなんて、悪夢でしかない」

「変なところで繊細ぶるな」


 二人の言い合いをぼんやりと聞いていたぼくだったが、そこで大事なことに思い当たった。


「それじゃあ、この財布を持っている人は、先生の金庫から好きなだけお金を引き出せるってことですか?」

「そのあたりに抜かりはないぞ、坊主。作り手に似て夢のない財布だ」

「堅実と言ってくれ」


 ダリルさんの嫌味ともぼやきともつかない感想に、先生はすまして応じた。


「いいか坊主、財布の正当な持ち主、つまりこいつにしか金は引き出せないし、いったん引き出した金も、こいつ以外には取り出せない。論より証拠だ。ちょっと貸せ」


 ダリルさんは先生から財布を、ぼくの手から金貨を回収すると、金貨を財布に入れてぼくに渡した。


「試してみろ。つかめないから」


 ダリルさんの言うとおりだった。財布の中のダカット金貨にぼくの指先が触れるやいなや、金貨はすうっと姿を消してしまったのだ。ぼくは仰天して財布をひっくり返したが、中からは半ルー銅貨一枚はおろかほこりすら出てこなかった。


「とまあ、こういう仕掛けだ。今ごろ金貨は金庫に逆戻りさ」

「それって……」


 ダリルさんが説明してくれた仕掛けとやらが本当なら、先生は印刷所の親方に使えもしない金貨をちらつかせて、ぼくの身柄を引き取ったということになる。それはどう考えても詐欺だろうと青ざめたぼくに、先生は「心配ないよ」と笑って首をふった。


「あの場に証人がいたわけでもないしね」

「訴え出たところで、夢でも見たのかと笑われて終わりだろうな」


 こともなげに言い放つ先生に、ダリルさんが同調する。


「そもそも、見習い小僧一人に十ダカットなんて金額が馬鹿げてるんだ」

「まるで対価を支払わなかったわけでもないしね。ダリル、この財布はいくらで手に入れた?」

「三クロシュ半」

「まあ、そんなところか」


 平然とうなずき合う二人を前に、ぼくはケーキを口の中に押しこみ、冷めたお茶で流しこんだ。甘さの中にふわりと広がるラム酒の風味が、さっきより少しだけ濃く深く香った。





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