第1話 女王の都の停車場
ぼくが先生に出会ったのは、十二歳の誕生日を迎えた三日後の、春の夕べのことだった。
夜明け前にアッシェンの孤児院を出て、乗合馬車にゆられること半日。それから汽車の三等席につめこまれ、固い座席で身を縮めることさらに半日。ようやくたどりついた女王陛下の都グラウベンの駅に降り立つなり、ぼくはその場にへたりこんでしまった。
長旅で疲れきっていたこと、おまけにひどく空腹だったせいもあるが、なによりぼくを打ちのめしたのは、視界いっぱいにひろがる「色」だった。
にごった緑、くすんだオレンジ、黴のような青、泥炭の茶……ありとあらゆる「色」が混ざり合うさまは、さながらキャンバスにぶちまけられたヘドロのよう。そして、その中を行き交う人、人、人……いったいどこからこんなにたくさんの人が集まってきたのだろう。ぼくが育ったアッシェンの村の住人をすべて足し上げても、その場にいる人々の百分の一にも満たなかっただろう。
あふれる人波と押し寄せる「色」の洪水にめまいを覚え、ぼくはかたく目をつぶった。
胃がぎゅっとねじれ、全身から冷や汗が噴き出す。目の奥がちかちかし、呼吸がどんどん浅くなる。頭が痛い。息ができない──
「──きみ」
不意に、肩に手がおかれた。のろのろと顔を上げたぼくは、ぽかんと目を見開いた。
そこにあったのは、やわらかな黄金。一日の終わりを告げる、おだやかでやさしい色。ぼくがいちばん好きな色だった。
「具合が悪そうだが、大丈夫かい」
そこにいたのは見知らぬ紳士だった。目深にかぶった帽子の下で、金縁の眼鏡が光っている。そのガラスの奥にある琥珀色の双眸を見た瞬間、僕の頭がすっと晴れた。
「……大丈夫です」
額の汗をぬぐって、ぼくは答えた。
「立てるかい」
その人がさしのべてくれた手にすがって立ち上がったところで、情けないことに僕はよろけてしまった。ちょうど横を通りかかった荷運び人のまわりに漂う「色」の靄に、まともに顔を突っ込んでしまったからだ。
「……きみは、もしかして」
その人はふと眉をひそめ、自身がかけていた金縁の眼鏡を外すと、それをぼくの耳にかけてくれた。
「どうかな。少しはましになっただろう」
ぼくは思わずあっと声をあげてしまった。
少しは、どころではなかった。あれほど僕を苦しめていた「色」の洪水が、眼鏡をかけた途端すうっと引いてしまったからだ。ガラスの向こうに見えるのは、ミルクのような白い霧と、そのなかを泳ぐ人々の姿。ただそれだけだった。
「まずはここを離れたほうがいい」
言うなり、その人はぼくの足元の鞄をひょいと取り上げた。
「あの……」
「おいで」
鞄を持ったままさっさと歩きだした背中を、ぼくはあわてて追いかけた。人混みを縫うように進み、気がつくとぼくは駅の前に停まっていた四輪馬車に乗せられていた。
「しばらく待っていてくれ、キャリガン」
御者の人にそう声をかけて、その人は扉を閉めた。
「さて」
向かいに座ったその人が帽子をとるなり、ぼくはまたぽかんとしてしまった。どう上に見積もっても四十は越していないと思われる若々しい容貌とは裏腹に、その人の頭髪が一本残らず雪の色に染まっていたからだった。
「驚いただろう」
骨ばった指で白い髪をすきながら、その人は言った。
「この街はたいていいつもこんな具合でね。きみみたいな子には難儀だろう。まあ、じきに慣れるだろうが……」
ああ髪のことじゃなくて、と思ったところでぎくりとした。いまの言葉、いまの言いぶり。この人は知っているのだ。ぼくの目に何が映っているかを。
「そうだよ」
ぼくの頭の中を読んだように、その人は薄い唇をゆがめた。
「きみのような子のことはよく知っている」
呆然としているぼくの前に、青白い手がさしだされた。
「アーサー・シグマルディ」
簡潔にその人は名乗り、ぼくを安心させるように笑った。
「そう警戒しなくてもいい。なにもきみをとって食おうというんじゃないからね」
そこでようやく、ぼくは目の前にさしだされた手の意味に気づいた。それでもすぐに応じることができなかったのは、ぼくがその人を警戒していたからではない。ただ戸惑っていたからだ。ちゃんとした握手を、それも大人の男の人から求められるなんて初めてのことだったので。
「……ルカ・クルスです」
おずおずと持ち上げたぼくの手を、一呼吸分の間を置いて、その人はしっかりと握ってくれた。想像していたよりずっと温かな手で。
「よろしく、ルカ君」
眼鏡の向こうで、琥珀色の瞳がやわらかく笑んだ。ガラス越しにもはっきりとわかる、透きとおった、そしてほんのわずかな翳りを帯びた、それは綺麗な黄金だった。




