第17話 顔のない支配人
「やあ、ルカ君」
不安に急き立てられて階段を降りたぼくを、いつもと変わらない笑顔の先生が迎えてくれた。
「お疲れさま。きみのおかげで舞台は上々だ」
「ほう、するときみが」
先生の隣に立つ人影に、ぼくは一瞬ぎくりとした。だけど、愛想よくぼくに笑いかけてくれたその人は、先ほどの紳士とは似ても似つかぬ恰幅のよい初老の男性だったので、ぼくはほっと胸をなでおろした。
「シグマルディさんの助手か。なるほど、アレクサが騒いでいただけのことはある。きみ、演劇に興味はないかね」
「ベルトランさん、そういう話はわたしを通していただかないと」
苦笑まじりに先生が口にしたその名に、ぼくは内心なるほどと思った。さっきまで天井裏で一緒だったご老人と、目の前の紳士がどことなく似た雰囲気を漂わせていたからだ。親子だろうかと考えているぼくに、先生はその紳士を紹介してくれた。
「ルカ君、こちらのベルトランさんはパルモント劇場の支配人でね」
「えっ……」
思わず声をあげてしまったぼくを、二対の目が眺め下ろした。ベルトランさんは不思議そうに、そして先生は愉快そうに。
「あ……その、ぼく、上でベルトランさんという方にお会いして、てっきりその方が支配人だと……」
そこまで口にしたところで、ぼくはあわてた。当の支配人さん相手になんて失礼なことを言ってしまったのだろうと。だけど、ベルトランさんは怒るどころか大きなお腹をゆすって笑いだした。
「これはいい。そうか、きみは支配人に会えたのか。しかも話まで! いや、さすがはシグマルディさんの助手だ」
呆気にとられているぼくに、先生が「あれを」と壁の一点を指さした。
「ごらん、ルカ君。きみが上で会ったのは、あんなお人じゃなかったかい」
先生が示した先には、一枚の肖像画が掛かっていた。描かれていたのは威厳あふれるご老人だ。目の前のベルトランさんに二十ばかり年をとらせ、目方を半分くらいにした上で、うんと厳めしい表情をつくってもらえばこうなるかな、といった姿だった。
「よく……わかりません。暗くて顔は見えなかったので」
「おやおや、意外と照れ屋な御仁なのかな」
「そうですとも」
ベルトランさんが楽しそうに話に加わる。
「こんな稼業をしているわりに、人見知りというか、偏屈なところがある人でした」
なつかしそうに目を細め、ベルトランさんは壁の肖像画を見やった。
「しかし、どうやらきみは気に入られたようだ。クルス君といったね。きみが会ったのは、わたしの大叔父だよ。この劇場の生みの親で、初代の支配人でもある。ざっと三十年ばかり前に亡くなった人だがね」
大叔父、初代、三十年前、亡くなった……ベルトランさんの言葉がぼくの頭の中でぐるぐる回る。ということは、つまり──
「……幽霊」
「そうびくつくことはないさ、ルカ君。実際、悪い人じゃなかっただろう?」
先生の言うとおりだった。あまり話らしい話もできなかったが、いろいろとぼくを助けてくれた、頼もしいお爺さんだった。怖ろしいといったら、あの──
「大丈夫」
脳裏にあの「色」がよみがえり、身震いしたぼくの肩に、先生が手をおいてくれた。天井裏でベルトラン氏がそうしてくれたように。
「老ベルトランの劇場で、怖がるようなことは何もないよ」
「そうとも。そこらの幽霊と一緒にしてもらっちゃ困る。あの人はこの劇場の守り神みたいなものだ。怖がる必要があるものかね」
似たような言葉の、だけど意味合いは異なる励ましをもらいながら、ぼくはそっと老ベルトランの肖像画に目をやった。額縁の中で、劇場の支配人はほんの少し笑ったように見えた。




