第16話 光と影と金の蝶
明かりの落ちた観客席。眼鏡を外していたぼくの目は、いつものように、そこに漂うさまざまな「色」をとらえていた。いつもと違ったのは、その色彩が一切の濁りも澱みも含んでいなかったということだ。
それはきっと、先生が舞台で生みだす光のせいだったのだろう。あんな素敵な光に照らされれば、どんな「色」だって明るく輝こうというものだ。ただひとつの「色」を除いては。
「どうしたね、坊や」
ベルトラン氏の声がひどく遠くに聞こえた。そのときのぼくは、たぶん震えていたのだと思う。客席に暗く凝る、あの「色」を見て。
それをひと言で表すなら、黒。どこまでも深く、際限なく昏い闇。
その黒々とした渦の中で、痩身の紳士が顔を上げた。見下ろすぼくの視線に気づいたように。
刹那、黒が膨張した。爆発的に膨れあがった闇が、一瞬でぼくの視界を塗りつぶす。氷のような手がぼくの首に、肩に、腕に、足にからみつき、そのままぼくを底なしの淵へと──
「坊や」
肩をつかまれ、ぼくははっとした。まばたきをした視界に映るのは、先ほどと変わらない、暗い天井裏の景色。それから、ぼくの肩を支えてくれているベルトラン氏の腕だった。
「しゃんとしなさい。ここは私の劇場だ。怖がることは何もない」
力強い言葉と肩におかれた手の重みに、ぼくの身体の強張りが解けた。額の汗をぬぐい、ふたたび客席に目を落とすと、例の紳士が立ち上がるところだった。そのままゆっくり、紳士は舞台のほうへ歩きだす。まばゆい光を頑なに拒むような、あの「色」とともに。
不吉な予感に背中を蹴とばされて、ぼくは手すりから身を乗りだした。あぶない先生、と叫びかけたそのとき、舞台の先生がひょいと顔を上げた。
いまだよ、と聞こえた気がした。悪戯っぽい笑みを含んだ先生の声が、耳元ではっきりと。ほらルカ君、思いきり景気よく!
何かを考える暇もなく、ぼくは腕にかかえていたシルクハットを逆さにした。中からあふれたのは金色の蝶の群れ。何十、何百もの黄金の蝶が客席を舞いめぐり、次の瞬間ぱっとはじけた。きらきらした光の粒が雨のように観客にふりそそぎ、そしてはかなく消えていく。
光の最後のひと雫が消え去ると同時に、歓声がわいた。観客は夢から覚めたように総立ちになり、嵐のような拍手を舞台へ送る。あらゆる「色」が溶け合い、あわい金色の光につつまれた客席に、あの黒はどこにも見当たらなかった。
「いや、これは見事」
ベルトラン氏が手をたたく音で、ぼくは現実に引きもどされた。
「あの、すみません、ぼくはこれで……」
すでに舞台に先生の姿はなく、焦ってその場を立ち去りかけたぼくを、ベルトラン氏が呼びとめた。
「待ちなさい、坊や。忘れ物だよ」
そう言ってベルトラン氏がさしだしたのは、ぼくが最初に落とした眼鏡だった。
「それと、あの幻術師に伝言を頼む。今夜の舞台も素晴らしかった。次はぜひ、水の乙女の踊りを見せてもらいたいものだ。ベルトランがそう言っていたと、あの男に伝えておくれ」
「はい、必ず。いろいろとありがとうございました」
ぼくは眼鏡をうけとって上着のポケットにおさめた。それから大急ぎで、だけど足元には十分注意して、その場を後にしたのだった。




