第14話 パルモント劇場
演劇や演奏会、朗読会なんてものはアッシェンの公会堂でもたびたび催されていた。ぼくも何度か観に行かされたことがあるが、あまり楽しかったという記憶はない。ヴァイオリンやピアノの演奏、詩の朗読なんかを聴いていると──発表者の方には大変申し訳ないのだが──眠くなってくるし、芝居の筋書きもだいたいが説教じみていて退屈なものが多かったからだ。
なによりうんざりさせられたのは、孤児院の子どもたちはここ、と座る場所が決められていたことだ。たいてい隅っこの、すきま風吹き込むその区画に押し込められていると、まるで自分が罪人にでもなったような気がしたものだ。くわえて、まわりから同情とも蔑みともつかない視線を向けられたり、ひそひそ話の種にされるのもたまらなかった。
ひどいときは、村の乱暴な子どもに泥団子をぶつけられたりもした。あのときは孤児院の中でも血の気の多い連中が応戦したものだから、舞台そっちのけでえらい騒ぎになってしまった。まあ、つまらないお芝居を観るよりずっとおもしろかったことは確かだけど。
とにかくそんなわけで、劇場という場所にあまりいい印象を抱いていなかったぼくだったが、その晩先生と訪れたパルモント劇場は、そんなぼくのぱっとしない思い出をすっかり塗りかえてしまうくらい素敵なところだった。
歴史を感じさせる白い石造りの建物は、重厚でありながらも温かみのあるたたずまいで、街の風景にしっくりと溶けこんでいる。アーチ形の玄関の両脇に灯された明かりもどことなく楽し気で、道行く人を陽気に手招きしているかのよう。玄関横の券売所には、めかしこんだ人々が列をつくり、その誰もが、これから始まる夢のひとときへの期待に胸を躍らせているように見えた。
「こっちだ、ルカ君」
おもてに張りだされている色とりどりの広告に見入っていたぼくは、先生の声にはっと我に返り、あわててその背中を追いかけた。人混みをすりぬけて先生が向かったのは劇場の裏口で、勝手知ったるといった様子で先生はその扉を開けた。
先生につづいて中に入ったぼくは、暖かい空気と心地よいざわめきにつつまれた。いわゆる楽屋裏というところなのだろう。薄暗がりの中を忙しそうに走りまわる人、大きな荷物を運ぶ人、隅の方で何やら真剣に話しこんでいる人たち……ものめずらしさにきょろきょろしているぼくの耳を、突然「アーサー!」と甲高い声が貫いた。
「やあだ、久しぶりじゃない!」
甘い響きの声とともに、何かきらきらしたものがぼくの視界に飛びこんできた。
「やあ、アレクサ」
先生に抱きつかんばかりの勢いで駆け寄ってきた女性を見て、ぼくは思わずぽかんと口を開けた。桃色の髪をふんわり結い上げたそのひとが、目のやり場に困るくらい大胆な格好をしていたからだ。
肩も腕もむき出しの、身体にぴったり沿う形の衣装は髪と同じ桃色で、金糸やビーズできらびやかに飾り立てられている。背中に薄い布で作った羽がついているところを見るに、おそらく妖精か何かに扮しているのだろう。大きく広がったスカートはびっくりするほど短く、白いタイツに包まれた脚が惜しげもなくさらされていた。
「あら、なあに、この子」
先生にアレクサと呼ばれたその女性は、ぼくの前でかがみこんだ。
「可愛いわねえ! ねえ、あんた誰? お名前は?」
にっこり笑いかけてくれた顔はとても親しみやすかったが、いかんせん目の前に迫る胸の谷間が……ああその、それなりに多感な年頃の少年としてはごく当たり前の……いや、何でもない。話をもどそう。
「あら、アーサー」
かちこちに固まっていたぼくの背中で、やわらかな声がした。ふりむくと、すらりと背の高い女性が先生に微笑みかけていた。裾の長い水色の衣装をまとい、腰までとどく金髪に銀の冠を戴くその人は、さながら雪と氷の女王といった佇まいだったのだが、
「この坊やは? アーサーの隠し子かしら」
麗しい唇からこぼれた台詞はとんでもなかった。
「うっそお!」
甲高い叫び声をあげて、桃色の髪の妖精がぼくの肩をつかんだ。
「どうなの坊や! このひと、ほんとにあんたのお父さん!?」
「うるさいわよ、アレクサ。あたしが話してるんだから」
「あたしのほうが先だったんだってば! ねえねえ、あんた、お母さんは?」
「アレクサ、ルイザも、そのへんで」
後ろから先生の手がのびてきて、ぼくを妖精からやんわりと引きはがした。
「この子はわたしの助手だよ。今日の舞台のために連れてきたんだ」
助手、の言葉に驚いて先生を振り仰いだぼくだったが、口を開いたのは二人の女性のほうが早かった。
「ひっどい、アーサーってば! 助手が要るならあたしに声かけてって、いつも言ってるじゃない!」
「あら、助手ならあたしのほうがおすすめよ。アレクサよりずっと役に立つわ。舞台の上だけじゃなくて、いろいろとね」
熱っぽく訴える妖精と、色っぽい流し目をくれる女王さま。趣の異なる花に囲まれた先生は、だけどまるで動じたふうもなく「その話はまた今度」と応じると、ぼくの肩を抱いて歩きだした。絶対よ、約束ね、という声を背中で聞きながら、ぼくはそうっと先生を見上げた。
「……先生って、もてるんですね」
「きみほどじゃないさ」
口の端をつり上げた先生の顔を見て、悪い男ってこういう人をいうのかなと、ぼくはひそかに思ったものだ。本当に、ここだけの話だけど。
「さてルカ君、さっきも言ったように、今夜のきみはわたしの助手だ。これを持って、ここから──」
先生は片手でシルクハットをぼくにさしだし、もう片方の手でそばにあった階段を指さした。
「上に登ってなさい。そこから舞台が見えるから、わたしの合図で中身をまくんだ。思いきり景気よく頼むよ」
シルクハットをのぞきこんで、ぼくはまたまた驚いた。いつの間に入れたのだろう、シルクハットの中には蝶の形に切り抜いた黄色い紙がいっぱいに詰まっていた。
「簡単だろう? ではよろしく」
そう言ってさっさと歩きだした先生を、ぼくはあわてて呼び止めた。
「合図ってどんな……」
「なに、そのときになればわかる。暗いから足もとに気をつけて。上にいる人に失礼のないようにね」
では、と微笑を残して、先生は今度こそ行ってしまった。暗がりに溶けていく白い髪を見送って、ぼくはかるく頭をふり、急な階の一段目に足をかけた。




