第13話 特別な装い
眼鏡を忘れないように。そう先生に言われるまでもなく、ぼくは身支度を整えると机の引き出しから眼鏡をとりだした。停車場で先生がぼくにかけてくれた金縁の眼鏡は、あれ以来ずっとぼくの手元にあった。
「しばらくきみが持ってなさい」
先生のかりそめの弟子になると決めた日、借りたままだった眼鏡を返そうとしたぼくに、先生はそう言ったのだ。
「少なくともこの街に慣れるまでは」
「でも、それじゃ先生がお困りでしょう」
「なに、心配はいらない。見たくないものを見ないようにする技なら、他にいくらでも知っているからね」
たとえばどんな、と訊ねたぼくに、先生は「きみも年をとればわかる」と笑うばかりで答えてくれなかった。
実際、眼鏡がなくて困るのは、先生ではなくぼくの方だった。初日の停車場ほどではなかったものの、通りを行き交う人々の間に漂う「色」の洪水は、相変わらずひどいものだった。
だけど先生の眼鏡をかけるとたちまちのうちに、よどんだ「色」はすうっと後退し、薄めたミルクのような霧に姿を変える。そこでようやくぼくは息をつき、白くかすむ街を歩くことができるのだった。
その晩も、ぼくは登山家が命綱をたしかめるような慎重さで眼鏡をかけ、階下の居間に降りた。
「お待たせしました、せ……」
先生、と最後まで言えなかった。窓辺にたたずむ先生が、普段とはまるで違う装いだったからだ。
黒の燕尾服に糊のきいた真っ白なシャツ。クリームがかった白いタイと、胸元から上品にのぞく純白のポケットチーフ。いつもはぼさぼさの髪も綺麗になでつけて、それはどこから見ても、これから夜会に出かけるような貴族の紳士そのものだった。
「きみ、それだけかい」
とがめるような先生の声に、ぼくははっとして自分の姿を見下ろした。
その晩のぼくは、孤児院を出るときにあつらえてもらった服を着ていた。例によって院長が教会のバザーで手に入れてきたお古を、年長組のお姉さんが繕ってくれたものだ。ところどころ継ぎが当てられ、よく見ると上着のボタンもひとつだけ違うものがついていたが、とにかくそれが、ぼくにとって唯一の外出着だった。
「……これしかなくて」
屋根裏の窓ガラスに映したときはそれなりにきちんとして見えた姿も、盛装した先生の前ではお話にならないくらい貧相なものに思えた。恥ずかしさにうなだれたぼくの目に、昼間はりきって磨き上げた靴が映った。
うんと楽しみにしていた外出だけど、こんなみすぼらしい子どもを連れ歩くなんて先生も嫌に決まっている。やっぱりぼくには留守番がお似合いなのだろう。ぼくがそんなことを考えていると、先生は「ちょっと待ってなさい」と言って居間を出ていき、すぐにもどってきた。
「少し大きいだろうけど」
そう言って先生がさしだしたのは、黒い毛織の外套だった。
「今夜はこれを着ていきなさい。そんな薄着じゃ風邪をひく。春でもこの街の夜は冷えるんだ」
先生がぼくの肩にかけてくれた外套は薄くて軽くて、なのにびっくりするほど暖かかった。
「……先生」
部屋にもどれば冬用の外套と、なんなら襟巻だってあった。重くて、さすがに春の宵にはいささか暑すぎるだろうけど、少なくとも風邪はひかない格好で出直してくることはできたのだ。
だけど、ぼくは屋根裏にとってかえす気にはなれなかった。かわりに外套に袖を通し、ほのかに残る虫よけの香りを吸い込んだ。
「……だいぶ大きいです」
「我慢しなさい。風邪をひくよりましだろう」
「そうですね」
先生がこちらに背を向けている隙に、ぼくは大急ぎで目をこすった。
外に出るとキャリガン氏の馬車が待っていた。帽子に手をあてて会釈をするキャリガン氏に、先生はシルクハットを持ち上げて応え、「パルモント劇場まで」と告げた。
「よろしく頼むよ、キャリガン」
夜の街に軽快な車輪の音を響かせて、ぼくらを乗せた馬車は劇場へとひた走った。




