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黄昏の幻術師  作者: いろは
第一章
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第11話 はじめから、ずっと

 屋根裏の掃除が一段落したところで、キャリガン夫人は台所でお茶をいれてくれた。


「すみませんけど、坊ちゃん」


 ポットと二客のカップ、それに砂糖とミルクの壺をのせたお盆を、夫人はぼくにさしだした。


「これを旦那さまに持っていってくださいますか。二階の居間にいらっしゃるはずですから。わたくしはお昼の支度をさせてもらいますね」


 いかにも高価たかそうな茶器にびくびくしながら階段を登り、居間をのぞいたところで、ぼくは立ち止まった。


 こじんまりした居間の、大きな窓の側に据えられた長椅子で、先生はうたた寝をしていた。クッションに頭を預け、読みかけの本を胸の上に伏せて。


 それはなんともいえず、穏やかで満ち足りた光景だった。

 レースカーテン越しの陽光が先生の白い髪に透け、くすんだ赤の絨毯にやわらかな陽だまりをつくっている。居間の真ん中の小さなテーブルにも、そのわきの安楽椅子の上にも、本やら手紙の束やらがいっぱいに積まれていたが、不思議と散らかった印象はなく、むしろその雑然とした雰囲気がこころよかった。


 ぼんやりたたずむぼくの気配を感じたのか、先生はうんと伸びをして目を開けた。その瞬間、ああそうかとぼくは思った。この部屋がこんなにも心地よく見えるのはこの人のせい。この人のまとう「色」のせいなのだと。


「やあ、ルカ君」


 先生は白い髪をかきまわしながら身を起こし、ぼくを手招きした。


「ずいぶん活躍してくれたみたいじゃないか。キャリガン夫人も大助かりだったろう」


 先生はテーブルと安楽椅子を占領していた本を長椅子の上に移し、ぼくが座る場所をつくってくれた。


「部屋は片付いたかい」


 はい、とぼくはうなずき、先生にならってカップに口をつけた。ふちが金色のカップに注がれたお茶は、朝に飲んだものとは味も香りも違っていたが、やはりとても美味しいお茶だった。


「……お訊きしてもいいですか」


 温かなお茶で気持ちを整えて、ぼくは口をひらいた。


「ぼくに、弟子のふりをするだけでいいとおっしゃいましたよね。それはつまり、ぼくに、あの……不思議な術を教えるつもりはないということですか」


 先生はカップをテーブルに置き、組んだひざに頬杖をついた。


「きみは、学びたい?」


 逆に問われてぼくは困惑した。当たり前だと口にしかけた言葉は、なぜかのどにからんで出てこなかった。


「きみが本当に望むなら教えないこともないがね。まあ、やめておきなさいと言っておくよ。あんなものを覚えたところで、きみの役に立つとも思えないからね」

「そんなことは……」

「そうなんだよ」


 先生はゆるく頭をふった。


「ほかでもない、きみが証明してくれただろう? あんな力を使わなくとも、きみはちゃんと卵も焼けるし、お茶だって淹れられる。わたしよりずっと上手にね」


 冗談めかしてそう言いながら、先生は砂糖とミルクの壺をぼくの方へ押しやった。


「火をおこしたければマッチをすればいい。街はガス灯が照らしてくれるし、遠くに行きたければ汽車が運んでくれる。世の中は進歩しているんだよ。確実に、急速にね」


 らないんだよ、と先生は独り言のようにつぶやいた。


「この先の世界に、あの力は必要ない。われらは消えゆく一族だ。それを惜しいとは思わない」


 先生の言うことは正しくもあり、同時に何かが間違っているような気もした。その「何か」がなんなのか、うまく言い表すことはできなかったけれど。


「……なんで」


 気がつくと、その言葉がぼくの口からするりとこぼれていた。


「なんで、ぼくなんですか」


 ずっと考えていたのだ。掃除をしながら、お茶を飲みながら。先生がぼくを選んだ理由は何なのかと。それはやはり、この奇妙な目のせいなのだろうかと。先生のような魔法使い──というと先生は笑うけど──の興味を惹きそうなものといえば、この目くらいしか、ぼくは持っていなかったから。


「べつにこれといった理由はないがね」


 かるく首をかしげて、先生はぼくの予想をあっさり裏切ってみせた。


「茶番に付き合ってくれる相手を探していたところで、たまたまきみに出会った。それだけだよ」


 ぼくがいい、とは、先生は言わなかった。ぼくでなくては、とも。聞く人によっては、その熱のなさにがっかりしたかもしれない。だけど、ぼくはむしろほっとしていた。本当に、自分でも驚くほどに。


「ああ、もちろん、誰でもいいというわけじゃない。いくらわたしが変わり者でも、話も合わない人間と暮らす気にはなれないからね。その点きみとは上手くやっていけそうな気がしたから」


 旦那さまはすっかりその気。ふと頭の中によみがえったキャリガン夫人の声に、先生の穏やかな声が重なった。


「どうするかはきみ次第だ。ゆっくり考えて決めてくれればいい」


 不意に、ぼくはおかしくなった。先生だけじゃない。ぼくだって、はじめからずっとその気だったじゃないか。


「お引き受けします」


 背筋をのばして答えてから、「でも」とぼくは言葉を継いだ。


「ただで置いてもらうわけにはいきません。ここにいる間はできるかぎりお手伝いをさせてください。掃除でも洗濯でも、ぼくにできることならなんでも」


 先生の目元がふっとやわらいだ。


「そのあたりは、キャリガン夫人と相談するのがいいだろうね」


 折よく階下からキャリガン夫人がぼくらを呼ぶ声がした。お昼ですよ、早く降りてきてください。そんなやわらかな響きを、ぼくはもうずいぶん長いこと耳にしていなかった気がした。


「行こうか、ルカ君」

「はい……」


 お盆を持って立ち上がったぼくは、ほんの少し迷ってからその呼び名を口にした。


「先生」


 不意をつかれたようにふりむいた先生は、すぐに微笑んでぼくの肩をかるくたたいてくれた。


 ぼくと先生のいささか風変わりな暮らしは、こうして始まったのだった。



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