4話 夢の中で
夢を見ていた。
まだ自分の周囲が『普通』だった時の夢。
「……マリーシア!」
珍しく、弾む声とともにレスターが姿を現したので驚いてしまう。
マリーシアは当時、広い庭園で紅茶を飲みながら本を読む習慣を持っていた。
だからその日も普通に、日が傾くまでのんびり読書を続けて寛いでいたのだ。
庭園には花が咲き誇り、静かで落ち着いた時間は読書タイムにピッタリ。
時折庭師が目の前を通り過ぎてマリーシアにペコリと頭を下げる。
騒々しさとは無縁の時間に、急にレスターが割り込んできたものだから目を白黒させた。
強い風のせいで亜麻色の髪が揺れ、マリーシアは側頭部を片手で押さえる。
栞を挟んで本を閉じると、いつの間にか目の前にレスターが立っていたのだ。
彼は普段、落ち着いた物腰の好青年と言った佇まいで、同年代の女性の間では「クールビューティー系王子」などと話によく話に上がっていた。
国中の年頃の女性の羨望の対象だ。
レスターは15歳という早い段階で、国王陛下たる祖父と王太子である父親を助けて国政に関与しているという話も幾度となく聞いていた。
ホルンの周囲の国は友好国ばかりで、差し迫った国家存亡の危機とは無縁だ。
また、温暖な気候の土地のおかげか、国内は平和ボケしていると心配するほど穏やかな環境にいる。
それもこれも、代々の国王陛下が賢王と讃えられるに相応しい方々で、王侯貴族間の結束も強く表立った諍いとは無関係でいられるのだ。
――一般市民をはじめ、マリーシア達家臣達が平和を享受できているのは、偏に国政に携わる人々の外交手腕のお陰である。そう父母に言い聞かせられていた。
決して広くない国土だが、農産物は輸出できるほど収穫量が多い。
鉄鉱山から採掘される原鉄が主要生産物、他にも宝石やアクセサリーの加工技術に一日の長がある。
その強みを生かして外交カードを切り合い、戦争が起こらないよう立ち回ってくれていた。
自分は公爵家の長女なのだから、結婚すればそういう外国の賓客をもてなす機会や関わりも多くなる。
後々、お偉い方々に対する粗相がないよう、外に出ても恥ずかしくない程度の教養を施してもらっていたのだが…
「マリーシア。
君との婚約話、陛下が賛成してくださった。
決まりだよ!」
「ええ!? 嬉しい!」
思わずマリーシアは立ち上がり、喜びのあまりレスターに飛びついた。
「でも私…お父様から、そのようなお話を聞いてないですよ?」
「それはそうだろう。
ついさっき、父上と陛下のお赦しを頂いたばかりだ。
最新の情報だよ、真っ先に君に届けたくてね」
まるで子供の頃、幼馴染連合が揃って悪戯を計画した時の――キラキラ輝く玩具を手にした少年のような笑顔を向けてくれる。
いつも凛々しくて、口数も決して多くない。
そんなレスターの素の顔を知っているのは、幼馴染たちだけだと思うと、マリーシアは他の人には見せたくないと言う気持ちになる。
「ありがとうございます!
正直、諦めかけてました。
…だって、別の王国からお妃を娶った方がいいと言うお話もあったそうですすし」
どちらが王国のためになるのか、マリーシアには判断できなかった。
王様の選択に、自分如きが横入できるはずもないので、レスターのお后様選びが始まってヤキモキした日が続いていたのだ。
「わっ」
マリーシアの足が、急に大地から離れる。
腰を掴まれ、そのまま体ごと”ヒョイッ”と持ち上げられてしまった。
ついさっきまで見上げていたはずの彼の顔が、下の方にあるという不思議な現象に狼狽えるマリーシア。無意味に手をじたばた動かす。
「陛下は最終的に私の判断を尊重してくれた。
…マリーシア、君の評判が決め手の一つになったんだ。
ふふ、なんだか複雑な気持ちだよ」
くるんっと体が回り、その浮遊感に戸惑う。
反射的に、彼の肩に手を伸ばしてしがみつく。
マリーシアの爪先が、そっと大地に降り立った。
「君が色んな人と交流があって、親しまれていることは知っていた。
私はその度にモヤモヤしていたというのにね。
今となってはそのお陰で周囲からの後押しをもらえたようなものだ、人生わからないよ」
ちょっぴり気恥ずかしそうなレスターは、拗ねたように横を向く。
マリーシアは特別社交的なタイプではないと自覚しているので、レスターの評価はいささか過剰だ。
まぁ、他人に良い印象を持ってもらえたならホッと胸をなでおろして安心できるけど。
「あのー、前々から凄く疑問なんですが…
何故私は、レスターからそんなに過大評価されてるんです?」
「……君の傍にいると、前向きになれる」
「えっ」
「君の持って生まれた才能の一つだよ。
もっと自信を持っていい、君の笑顔は皆の心も明るく照らしてくれる。
そう感じているのは、私だけじゃない」
そんな風に言われて嬉しくないわけがない。
元々、相手の身分がどうこうなんて拘らない人だろうけど、公爵令嬢マリーシアという属性ではなく、内面を見てくれている人なんだと改めて幸せな気持ちになった。
この国にはマリーシアより美人だったり、頭が良かったり、お金持ちの親を持つお嬢様がたくさんいる。
ホルン王室に輿入れするに相応しい他国のお姫様だって、顔を思い出すことが出来るのだ。
そんな中、自分を選んでもらえたことが嬉しい。
――彼の力になれるよう、もっともっと努力しないと。
「レスター!
私、凄く幸……」
せ、という台詞を言い終えることができなかった。
レスターにぎゅっとしがみつこうとした時。
突然、強い力で突き飛ばされた。
尻もちをついて、地面に投げ出される形になったマリーシアは愕然としてレスターを見上げる。
「……レスター…?」
彼はつい数秒前まで見せていた、喜びに溢れた笑顔をどこかにしまってしまった。
冷たく、憎々し気な色を帯びた双眸で、マリーシアを見下すレスター。
レスターの表情が徐々に暗く歪んでいく。
「何故私につき纏う?」
彼の足元に、闇が這いずる。
「親に決められた許嫁如きが、偉そうに」
彼の顔は真っ黒に塗りつぶされ、その瞳だけが酷薄に蒼く煌めている。
「お前よりもエリスの方が、何倍も素晴らしい女性だという事が分からないのか?」
『……その薄ら寒い笑い顔をやめろ』
顔のないレスターが吐き捨てた言葉に、耳を塞いでその場にしゃがみ込む。
「――ああああああ!」
明け方近く、マリーシアの寝室で叫び声が響き渡った。
窓の外で朝日を待ちわびていた鳥が数羽、驚いて飛び去る。
マリーシアは汗だくになっており、不快感に上体を起こす。
夢だ。
今のは…過去の自分の体験が混じり合った、今の自分には必要のない情景だ。
一番幸せだった時と、一番悲しかった時の彼の声が思考の中にマーブル状に溶けてぐるぐる回る。
酷いことを言ったのは、彼の本意ではない。
何かの間違いだった、レスターは今とても後悔していると言っていた。
マリーシアは昔の彼を知っている、あんなに哀しそうなレスターの顔は見た事がない。
レスター達が後悔しているなら、私ももう忘れなきゃ。
だけど、とても大事な人に何度も打ち付けられた杭は、呪いが解けた今もマリーシアの心に深く傷跡を残している。
この二年、彼は自分が傷つくような言葉を選んで、投げつけてきた。
自分が何か不興をかったのかと思っていたから、どんなに足掻いても改善しない状況に戸惑う他なかった。
扱いの落差は酷く、徐々に心が削れて言ったのだと思う。
「………もう、レスターはあんなこと言わない……」
「マリーシア様、いかがなさいました!?」
悲鳴を聞きつけ、廊下に控えていた侍女が血相を変えて飛び込んでくる。
「申し訳ないです。
夢見が悪くて」
「ああ…マリーシア様。
もう二度と、私達は貴女を裏切ることはありません。
…ずっと、貴女様にお仕えします」
王宮に遊びに来た時、最も仲の良かった侍女。
いつも笑顔で、失敗しても憎めない愛想の良い彼女に辛そうな顔をさせているのが耐え難い。
――侍女は幾度も謝罪の言葉を繰り返す。
このままでは、彼女を不安がらせるだけだ。
「はぁ…確かに、気分のいい思い出じゃないけど。
いつまでも気にしてても前に進めないし、大丈夫!
私、レスターを信じてる!
何かの間違いだったんだから、それでいいじゃない。
…ねぇ?」
いつも彼女に話しかけていたような砕けた口調を使ってみた。
ついこの前まで、『公爵令嬢の癖に、何て品のない言葉遣い』と眉を顰めて嫌悪感を露にしていた侍女の顔がパアッと明るくなる。
「マリーシア様!
……良かった、久しぶりです、マリーシア様の笑顔!
私も少しだけ、元気になれます!」
削り落ちた心は いつか元に戻るの?