3話 神官
「この度は、本当に大変なご苦労をしましたね、マリーシア様。
ヴィンセント・ディアスと申します」
ヴィンセントと名乗った黒づくめの青年は、うっすらと笑みを浮かべてこちらを眺める。
周囲が静かで、時間帯が深夜だからだろうか。
彼がまるで「闇」の化身のように錯覚する。
目を離したら、蝙蝠のような羽が生えて空に飛んで行ってしまうんじゃないかと、失礼なことを考える始末だ。
「今は体が思うように動かず、このような態勢でお話すること、失礼いたします。
神官様」
「私のような者に敬称など不要です、どうか名前でお呼びください」
彼はそう言いながら、恭しく頭を下げる。
「それでは、ヴィンセント。
教えてください。
――私に身に何が起こったのでしょう」
「マリーシア様のお体に変調が起こったわけではありません。
この国の人間が、マリーシア様を憎むよう呪いをかけられていたのですよ」
それはさっきレスターに聞いた。
もしも真剣な顔でレスターが訴えてこなければ、ありえないことだと一蹴するような恐ろしい話である。
「何故…」
「申し訳ございません、私には理由は分かりかねます。
ただ、手段としては度を越していると思います。
こういう人の感情を誘導する系のチカラは、神族や魔族にのみ許された次元の違う奇跡みたいなものですからねぇ」
「神様や、魔族…?」
ちょっと待て、スケールが想像以上に大きい。
そもそも、神様だ魔族だなんて、お伽噺や英雄譚という身近とは真反対の自分と無関係な概念だったはずだ。
「マリーシア様が何故このような、お可哀想な目に遭ってしまわれたのか…
呪いをかけた張本人を見つけ、事情を聴きだすしか知る術がないでしょう」
マリーシアは呆然とした。
この国に、自分をそこまで憎んでいる者が存在する…という事実に、全身が戦慄いたのだ。
「では…私は、また同じような境遇に陥る可能性がある…と?」
誰かが自分を呪った、しかも下手人が不明?
それではいつまた、同じように手のひら返しをされるのか分かったものじゃない。
「どうでしょう。
恐らく呪いをかけた人間はお星さまになっているとは思いますよ。
人の身で、大勢の感情を操作しようなどと…神をも恐れぬ所業ですからね、何かしらの神罰が下って亡くなっているんじゃないです?」
しれっとした顔のヴィンセントに、マリーシアは絶句する。
魔法だ神だ魔族だなんて、どの国にも一定数存在する一般通過公爵令嬢には縁がないので途方に暮れると言うのに…
「私は職業柄、呪いの類には敏感です。
万が一同様の気配を察知すれば、マリーシア様をお守りすることもできるでしょう。
相手の行動を素早く知ることで、対応可能なことも多いはず。
――まぁ、そのあたりのお話は、マリーシア様のご容態が回復されてからでも遅くありません」
ヴィンセントはそう言って、口の端を少しだけ釣り上げた。
「そう怖れることはありません。
貴女は一度、己を取り巻く呪いに打ち克ったのですから」
もう二度と、そんな呪いにかかりたくない。
しかし、呪いが解かれたから「めでたしめでたし」という確信はどこにもない。
下手人は”死んでしまっただろう”というのは、あくまでヴィンセントの見立てでしかないのだ。
「どうか、この事象に詳しい私にお任せください。
貴女をお守りします」
呪いなんて詳しくはないけど、本職の人間がそう言うのなら信じる他ない。
少なくとも、何度も気軽に呪える…というような類のものではないらしい。
そんなにホイホイと他人の感情を操作できるなら、とっくの昔に人類は滅びているのではなかろうか。
自分の運が悪かっただけ?
それとも、やっぱり…誰かに恨まれていた…?
「一体誰がマリーシアにこんなことをしたのか、私には全く見当もつかない。
君が誰かに恨まれるなんて、考え難いことだ。
どうすれば、犯人を見つけることができるのだろう」
レスターは腕を組み、悔しそうな声を床に落とす。
「落ち着いて、レスター。
知らないところで、私が誰かの逆鱗に触れるようなことをしたのかもしれません。
以後は、一層身を正した生活を送りますから」
もはや非常識の塊とも言える事態の話を、まともに論ずるのも思考の負担が大きかった。
ただ自分に起こっていたのが、呪いという現象のせいで、それが今は解けているというのはまだ救われる話だと感じる。
奇跡だ魔術だに詳しい人間は多くないし、このヴィンセントという神官に協力を取り付けるのも苦労したのではないだろうか。
「それにしてもマリーシア様、貴女は本当に強靭な精神力をお持ちですね」
ヴィンセントの声には、感嘆が混じる。
「理不尽にも身近な者たちに虐げられ、思いもかけない扱いを受けたとお聞きしています。
四方八方が敵だらけの状態で、よく逃げ出す事なく、心折れることもなくお過ごしでしたね?
それどころか、王子を身を挺してお守りするなど。
……皆様からお話を伺って、マリーシア様のお力になりたいと申し出たのです」
そんな風に言われて、背筋がむず痒い。
流石に命まで失われかけたのには恐怖を感じて逃げ出したいと思ったけれど。
自分はホルン王国の貴族の娘で、曲がりなりにも王族と誼のある立場の人間だ。
どんな風に扱われたとしても、それが自分の宿命…というか立場が上の人間に従うのはこの社会で当たり前のことだと思っている。
「陥れられた」のだとしたら、隙を見せた自分が悪かったのだろう。
誰も自分を助けてくれない環境になったのは、自分の立ち回りが悪かったに違いない。
だから理不尽を受け入れるのは、自然な流れだった…と今になれば思う。
哀しいとか辛いという感情は、次第に麻痺して慣れていくものだから。
レスターを庇ったのも、その延長線上の話なので、殊更大袈裟に称賛されると、心の隅っこがムズムズしてしまう。
「ああ、本当にマリーシア、君のお陰だ。
…命をかけて私を救ってくれた…
君の想いが、私達の曇らされていた感情を晴らしてくれたんだ」
レスターは再びマリーシアの傍に近寄り、蒼い双眸でマリーシアを見つめる。
その瞳は若干潤んでいて、彼が言い知れない感情の波を堪えていることが伝わってくる。
「君が助かった幸運を、神に感謝せずにはいられない。
君を失ってからでは、何もかも手遅れだったんだ。
謝る事さえできなかった。
生きていてくれて、ありがとう」
自分でも絶対にこの傷は助からないだろうなと思っていたので、神様の奇跡とやらに感謝する他ない。
マリーシアだって死にたかったわけじゃないから、ホッとしている。
「レスター?」
急に前身に重みを感じる。
彼が覆いかぶさるように、ぎゅっと抱きしめてきたからだ。
頬の下あたりに、レスターの髪が触れて擽ったい。
「……もう大丈夫だ、二度と君を傷つけたりしない。
安心して過ごして欲しい」
「わ、分かりました」
実際どう対応するべきなのか…と判断しかねていたので、コクコクと頷くほかなかった。
彼の真剣な声は、この二年自分を疎んで遠ざけようとしていたレスターとは別物だ。
こちらがどれだけ彼と話し合おうとしても、邪険に扱われてばかりだった。
こうして包みこむように優しく接してくれる彼と会ったのは、久しぶり過ぎる。
「レスター王子。
そろそろマリーシア様を解放して差し上げましょう。
このような夜更けに、レディの部屋に居座るのはいかがなものかと」
「……私は、マリーシアの婚約者だ」
同室でも構わないだろう、と若干拗ねるように眉を跳ね上げるレスター。
「えっ。」
さっきの婚約破棄が無効だという話を思い出してしまい、マリーシアは動揺し反射的に声が漏れた。
単なる驚きの声だったのに、レスターはプルプルと小刻みに肩を震わせる。
「……私は…昔と変わらず、君と一緒にいたいと思っている。
どうか、それだけは心に留めておいて欲しい」
「まぁ、いきなり心変わりで態度をクルクルしたとなっては、信用されないのも当然のことでしょう。
ですが、マリーシア様」
ヴィンセントは再び、丁寧な所作で頭を垂れる。
「……どうか、皆様のことを信じて差し上げてください。
とても――後悔しておいでなのです」
自分の知らないところで勝手に心を操られて、好きな相手のことを憎むようになって…
それで相手に嫌われてしまったら、当然と思うと同時に心底辛いし、それこそ理不尽だと絶望するかもしれない。
王子だけじゃない、他の人も同じように『呪い』の影響を受けてしまった。
抗えない力で強制された行動を、許せるのかどうか…
マリーシアには、即答できなかった。
いや、違う。
「今日は、一人で休ませてください。
レスター、そしてヴィンセント」
今こうして、マリーシアの傍にいる彼らが、急に豹変して自分を罵倒してきたら…
その光景が簡単に想像できて、それが身震いするほど恐ろしかった。
(――レスターを信用したい。
大好きだったのに。
こんな気持ちになる自分が嫌だ…)