1話 目覚めた瞬間の掌返し
世界は悪意に満ちていた。
――ホルン王国の公爵令嬢という立場ながら、
婚約者の王子に「頭は大丈夫か?」と目を疑うような仕打ちを受け続け。
――親友だと思っていた伯爵令嬢に、己の婚約者を略奪されて。
――その上家族は「私」の態度が悪いからだと、
友人を謗るのではなくこちらを目の敵にして責め続けた。
「……いや、ちょっと待って。
おかしくない?」
自分の受けた過去のことを思い返しながら、彼女は大きく首を傾げた。
常識と倫理がどこまで抜け落ちれば、こんな状態に陥るのか…?
自分の住んでいる王国は、そこまでおかしなことが平然と行われるところだっただろうか?
彼女、公爵令嬢マリーシアは脳裏に駆け巡った、自分の受けた仕打ちの数々が死ぬ間際に見る『走馬灯』だと気づいてしまう。
この数年間で変わってしまった皆の様子に、マリーシアの感覚がマヒしていたのだが…
流石に死の間際ともなれば、思い出して不快感を感じずにはいられない。
なんで私のスープにだけトッピングに小石が…?
なんで私の舞踏会用のドレスだけビリビリに引き裂かれたの?
なんで市民を扇動した謀反計画を立てたのが私になってたんだ? 知らんわ。
(あー、ヤバい。
頭がボーッとしてきた。
痛いし。
死ぬな、これ)
伯爵令嬢に王子の歓心を奪われたことで、家族から見放されてしまった。
公衆の面前で、婚約を破棄すると一方的に宣言されて呆然自失。
自分が何か決定的に悪事を働いたという記憶はないのだけど。
話す言葉が全部相手にとって悪感情を持ってとらえられ、何を訴えても誰の耳にも届かなかった。
それでも…幼い頃の王子との思い出があったから、この結末もしょうがないか、と受け入れる。
何をどうしても、起こってしまった過去は変わらないのだ。
『こ…婚約破棄!?
レスター王子!
何故ですか、私が何をしたと仰るのですか』
わけもわからず王子に食ってかかった自分。
そんな彼は自分を軽蔑の眼差しで蔑み、舌打ちをしてこちらを拒絶したのだ。
納得がいかず、マリーシアはその後何日もモヤモヤした日々を過ごしていた。
自分と婚約を破棄して、友人のエリスと改めて婚約するとか…
――生き地獄過ぎる。
どうにか考え直して欲しい、仮に婚約破棄をするにしても、友人の婚約者を略奪するような女はやめて別の候補からちゃんと選んで!
そんな訴えのために、マリーシアはしつこいと言われながらも、何度も彼に直談判に行ったのだ。
ああ、その時だっけ。
柱の影から一人の兵士が飛び掛かってきた。
その凶刃の先は王子に向かい、虚を突かれた彼は目を瞠るばかり。
哀しいかな、マリーシアの体は長年かけて『王族を守らなければ』という瞬間の判断、そして正しい反応が刻み込まれていた。
考えるよりも、損得を考えるよりも先に、体が動く。
彼の前に庇うように、体が躍り出る。
「マリーシア!?」
今まで散々見下してきた癖に。
流石に目の前で女が殺されるのは寝覚めが悪いのだろう。
レスターの驚きの声が聞こえる。
――馬鹿な奴だと笑えば良い。
でも誰かを恨むのは めんどうくさい。
痛みのせいで、思考が途切れ途切れになり、明滅を繰り返す。
どうか、次に生まれ変わった時は世界が幸せに満ちていますように!
虐げられていたこの世に未練も何もありはしない。
マリーシアは反乱軍の男に刺されそうになった王子を庇った結果、17年の短い生涯を閉じた…
そのはずだった。
※
うっすらと意識が戻り、体を動かそうとすると腹部に激痛が走った。
しかしそんな痛みがどうでもよくなるくらい、彼女は混乱していたのだ。
かなり深い傷を負ったことは自覚していたし、この怪我で死なない方がどうかしている。
助かる奇跡が起こるとすれば、即座に手厚く介抱されることが大前提だと思う。
『マリーシア』は王宮の皆に嫌われていた。
だから、自分を助ける人間などいるわけがない…そう思って諦めたはずなのに。
(なんで私、生きてるの?)
マリーシアの蒼い瞳が、数度目瞬く。
すると、それまで水を打ったように静まり返ってきたというのに。
大きな歓声が上がったのだ。
「マリーシア!
良かった…本当に良かった、目を覚ましたんだね」
必死に自分に呼びかける声に、マリーシアはぎょっとした。
体を起こそうとしても、上手く動けない。
顔を傾けようとしても無駄で、ただ視線だけ恐々と声の降る方へと差し向けた。
「ああ、神よ…
貴方のご慈悲に感謝します」
マリーシアの右手を包み込み、ベッドの端で涙を流して喜ぶ青年の顔がある。
「れす…たー?」
嘘だろ。
思わず、品のない言葉が口から出そうになるのを、マリーシアは抑え込む。
幸い、口が上手く動かないので助かった。
「本当に…私達のしたことは許されることではない。
今まですまなかった、マリーシア」
あまりの気味の悪さに、背中に虫唾が走った。
ゾゾゾゾ、と駆け抜けていく違和感に言葉もない。
本当にレスター…なのか?
ホルン王国の第一王子、レスター。
二歳年上で、他に類を見ない程の端正な顔立ちの、金髪碧眼の王子様だ。
幼馴染の一人の彼は、ここ数年自分を親の仇かのように嫌いまくっていた。
冷たく接せられる理由が全く分からず、マリーシアは戸惑うばかりだ。
仮にも相手は王子殿下という立場、冷たい対応を受けるのは自分に責任があるのだろうと最初は耐えるしかなかった。
だが彼のする嫌がらせは度が過ぎていた。
一時は、自分を王宮の一室に監禁して、三日間水も食べ物も与えられない状況を強いられたのだ。
人間の限界を探る人体実験にでも立候補したっけ?
と真剣に悩んだものである。
――これ以上無理。
水分を摂取しなければ死ぬ…!
という極限状態で、マリーシアは窓を割って部屋を脱出したのである。
婚約者の命を何だと思っているのかと抗議したら、逆に勝手に王宮内の部屋に引き篭もって出てこず、皆に迷惑をかけた非常識な令嬢扱いされて目玉が飛び出た。
陰から日向から盛大に嫌がらせをしてきた人間が、いきなり涙を流して自分に謝罪をしてきたら誰だってビビる。
「マリーシア。
今まで君を傷つけてしまった事、心から謝罪させてくれないか」
十年前のレスターがタイムスリップし、時を超え今ここに帰って来たのかと見紛うばかりの、悪意の欠片もない、キラキラと輝く純真な瞳!
どう返事をしていいのか分からなかったが、想像を超えた状況に脳内処理が追い付かずパンクしてしまいそうだった。
掌から伝わる彼のぬくもりに、血の通った温かさを感じる。
すると扉がけたたましい音を立てて開き、誰か人影が近づいてくるではないか。
「おお、マリーシア! 我が愛しき娘よ!」
血相を変えてマリーシアの傍にかけつけてくる声は、間違いなく自分の父親だ。
そして自分の容態を心配して泣き崩れる母の声も。
「マリー、本当に今まですまなかった。
私達は…大切な妹に、何と言う非道を行っていたのか。
今思い出しても、信じられないんだ」
兄のロイドが、その場に崩れ落ち、泣くのを堪えるように身体を震わせているのだ。
(ええ…?)
マリーシアの兄についての最新記憶は、王子に婚約破棄を言い渡されたマリーシアに『家の恥だ』と頬をパシンと張られたシーンなのですが…?
優しかった兄のロイドが自分に辛く当たるようになったのは確かに辛かったけれど。
今更掌を返されたように、自分に謝罪してくる一行を前に許すとかホッとするとかそんな感情は湧いてくることはない。
ただただ、ひたすら疲れた…という気持ちで、そのまま気絶するように再び意識を手離した。
だって、こんな状況不自然過ぎる。
『マリーシア!』
これが皆の演技だとしたら、最大級の嫌がらせだと思う。
マリーシアの周囲から、『悪意』が消えた。