勇者として旅に出た幼馴染が毎日のように手紙を送ってくる
窓から鳥が入ってきた。鳥はラシャの目の前まで来ると、小さな紙片に変わる。すっかり見慣れた文字だ。またニコラが手紙を送ってきたらしい。
ラシャは書いてあることを手帳に書き写した。早くしないと紙片が消えて読めなくなってしまう。スキル「手紙鳥」はどんなに遠く離れた相手にも手紙を送ることができるが、長持ちしないのが欠点だ。だから手紙を残しておきたければ、こうして別のものに書き写さないといけない。
「……あいつ、何やってんだか」
忙しいくせに、毎日、手紙を送りつけてくる。まるで話し相手を求めるように。
中身はどうでもいいような内容ばかりだ。雨が降った後の夜空は綺麗だとか、どこかの町の料理が美味しかったというような。村にいた頃と変わらない。
ニコラは一人ではない。支えてくれる「仲間」がいるはずだ。だからラシャに手紙なんてものを出さなくても寂しくない。
手帳を閉じた。ニコラが村を出発する前に買った手帳は、最後のページを残すのみとなった。
全て、日付とニコラからの手紙で埋まってしまう。
「もっと別のことに使う予定だったんだけどなぁ」
気がついた時には、ニコラ専用の手帳になってしまった。
この世界には一人一つのスキルなんてものがあった。神様の祝福とか、天が与えた能力、なんて別名もついている。本当に神様が与えてくれたものなのか、誰も知らない。成人の半分、九歳になったら、神殿でスキルを教えてもらえる決まりだった。
スキルを調べてくれる神殿は隣の町にあった。とても綺麗な場所で、白い服を着た大人に囲まれて測定された日のことを、ラシャははっきりと覚えている。一番偉そうなお爺さんに促されて水盆に手を入れると、空中に光る文字が出てきた。
当時は文字なんて読めなかった。お爺さんの神官が言うには、ラシャのスキルは「手紙鳥」というらしい。任意の人のところへ手紙を届ける。それだけだ。
正直に言うと、ラシャは落胆していた。ラシャが生まれ育った小さな村では、全くと言っていいほど使えない。用事があれば手紙なんて使わずに、直に会って話せば事足りる。村の外に知り合いなんていない。せっかく授かったスキルだったが、持ち腐れなのは子供だったラシャにも簡単に想像できた。
お爺さんの神官は、文字を勉強しなさいとアドバイスするだけだった。どんなふうに使うのかはラシャ次第ということだろう。
神殿の外で待っていた両親にスキルのことを話すと、使い道がないスキルでも喜んでくれた。人を害するものでなければいいと願っていたらしい。のんびりした性格の両親らしい感想だ。
恥ずかしくて人には教えられないスキルよりはいいが、もう少し生活の役に立つものが良かった。薪を割ったり、水瓶を新鮮な水でいっぱいにするスキルだったなら、両親はもっと喜んだだろう。ラシャだって自分のスキルで落胆することはなかったし、好きになれたはずだ。
村長に文字を教えてもらって、本を読んでいる間は忘れていられた。けれど家に帰る途中で、何のために勉強しているのか分からなくなる時があった。
村長は人が死んでも文字は残ると言っていた。でもラシャには書き残したいことがない。日記をつけたところで、平凡な村の生活なんて、毎日同じことしか書けなかった。
同じ日に鑑定していたニコラは違った。文字を読んだ神官の顔色が変わって、別室へ連れて行かれた。続いてニコラの両親も呼ばれて、そのまま神殿に滞在することになった。
二週間後、ニコラと両親は王城から来た使者と一緒に、立派な馬車に乗って帰ってきた。三人とも疲れた顔で一言も喋らない。心配する村人をよそに、使者の口から、ニコラは勇者だと公表された。
勇者。偉い人からの御触れを持ってきた使者によると、魔王に対抗できる人間のことらしい。そんなものにニコラはなってしまった。
ニコラは公表された日から、戦う練習を始めた。先生になる人も使者が連れてきて、教育が終わると帰っていく。
どこかの国の高名な騎士。最難関のダンジョンを制覇した有名な冒険者。かつて世界中を荒らしまわった盗賊。真っ白な髪のお婆ちゃんにしか見えない魔法使いも来た。
ニコラの練習は秘密にされていた。村の近くにある森の中に結界を張って、そこで行われていたらしい。村を去っていく先生たちは、自分が持てる技術を教えられて満足そうにしていた。
勇者だと言われる前から、ニコラはなんでもできた。
村のおじさんが見せてくれた縄投げ、おばさんが得意だった裁縫、石を投げる遊びだってニコラが一番上手だった。
ニコラにはそういう才能があったのだ。ラシャの「手紙鳥」だって、すぐに覚えて使えるようになった。ニコラは面白がってラシャへ手紙を飛ばしたけれど、ラシャは一度だけ返事を書いたきりだ。
文字じゃなくて、言葉で伝えてほしかった。会える時間が増えるから。子供の頃はずっと一緒にいたのに、勇者だと騒がれるようになってからは滅多に会えなくなった。同じ村にいても、精神的な距離はどんどん離れていく。自分ではどうしようもできない状態が嫌で、意地でも返事の手紙を出したくなかった。
全ての教育が終わって、ニコラが旅立つ前日。ラシャはニコラに呼び出された。
「本当は、行きたくないんだ」
知っている。ニコラは優しい性格だから、戦いなんて向いてないことぐらい。
「殴られると痛いし、怖い」
それはラシャも同じだ。転んだだけでも痛いのに、戦って傷つく痛みなんて想像したくない。
「でもラシャが魔獣に襲われるのは嫌。僕が何もしなかったら、ラシャが安心して暮らせなくなるから……」
スキルを鑑定してから十年。いよいよ魔王が復活するのでは、なんて囁かれている。魔王を封じている結界の力が急速に弱まっているらしい。ラシャたちが暮らす村はまだ平和なほうだが、遠くの国では壊滅寸前まで追い込まれていた。
「だから、行ってくるよ」
目を合わせず、ニコラは言う。
「手紙、送ってもいい?」
「許可なんていらないわ。好きなときに送ればいいのよ」
「ありがとう。ラシャは優しいね」
優しくない。ニコラが行ってしまうことに不貞腐れて、まだ行ってらっしゃいと言えない。困らせて引き止めたかった。
勇者を邪魔してはいけない――あの使者が子供だったラシャに忠告してきたことがある。どうしてもニコラに会いたくて、森へ行ってみたときに。すぐに使者と護衛の騎士たちに見つかって、村へ追い返された。
――彼を待っている人が大勢いるのだから、彼が心置きなく旅立てるようにしないといけないよ。
口調は優しかったけれど、あれは命令だった。もし「約束」を破れば、どうなっていたのだろうか。
ラシャはニコラが勇者をすることに納得していなかった。
大人が何人もいるのに、ニコラ一人に役割を押し付けているようにしか見えない。安全な場所から頑張れと言うだけの、無責任な集団。その中にラシャも含まれているのだと思うと、余計に嫌になった。
「何でニコラなの? 別にあんたじゃなくても、勇者なんて他にもいるんでしょ?」
勇者だなんて、偉そうにしている大人が勝手に言っていることだ。世界中を探せば、同じスキルを持っている人なんていくらでもいるはずだ。ラシャの「手紙鳥」だって過去に何人も保持者がいるのに。
ニコラはラシャを慰めるように、頭をなでてきた。スキルを鑑定した時は同じ身長だった。今ではすっかり見下ろされている。細かった体格だって変わっている。手なんか剣術を教えに来た騎士そっくりな無骨さだ。
女の子みたいに可愛かったニコラはもういない。ただの友達だと思っていた気持ちは、成長するにつれて別のものになった。ラシャが自分の気持ちを伝えても、ニコラを引き止める理由にはなれない。
何を言っても、明日には村を出て行ってしまう。だから何も言えなかった。
「ラシャも、気が向いたら返信してね」
「一生、出さないかもしれないわよ」
「それでもいいよ。手紙が届いたら、ラシャが生きてるって分かるから」
もし宛先の人が亡くなっていたら、手紙鳥は差出人のところへ戻ってくる。スキルの解説をしてくれた神官はそう言っていた。
翌日、ニコラは迎えに来た「仲間」と一緒に旅立っていった。
「あの神官の格好した女の子、王女なんだろ?」
「綺麗だったなあ」
見送りに来ていた人たちの声がする。
「あんな可憐な人と旅できるなんて羨ましいな。魔王を倒さなきゃいけないのは嫌だけどさ」
「王女もニコラが気になる様子だったね」
「あんなに格好良く成長すればね、夢中になるさ」
聞きたいのは、そんな言葉じゃない。自分と同じく、ニコラの旅立ちを惜しむ声であってほしかった。
ラシャは足早に家へ帰った。
皆が噂する通り、王女は綺麗な人だった。絹糸のような銀色の髪や、宝石にも負けない輝きをしたオレンジ色の瞳なんて、ここら辺では見たことがなかった。可愛らしい顔は人形が動いていると思ったほどだ。ニコラと二人で並んでいると、まるで物語の一幕を見ているようだった。
他の仲間も個性的だった。魔術に長けた女性は溢れんばかりの色気で魅力的だし、旅慣れているという戦士は爽やかな男性だった。
ラシャには決して入り込めない世界だ。この村ではありふれた、茶色い髪の田舎娘には、決して。
手紙は毎日、届いていた。けれどラシャは一度も返事を書いたことがなかった。
ニコラは村で一生を終える人じゃない。魔王を討伐して帰ってきたら、きっとどこの国も彼を欲しがる。もしかしたら王女がニコラを望むかもしれない。
スキルを鑑定された日から、ニコラとラシャの将来は決まっていたのだ。ラシャがどんなにニコラのことを想っていたとしても、もうニコラの人生に関わることはない。ただの村娘は歴史の片隅で、生きていた記録を残されることもなく消えていく。後の世に語り継がれる勇者とは、元から立っている場所が違うのだ。
一言でも書いたら未練が残る。そう思うと返事なんて書けなかった。
ニコラからの手紙は、ラシャの心なんてお構いなしに毎日届いた。
走り書きに見えるのは、ニコラの心に余裕がないからだろうか。少し滲んでいるのは、魔力が尽きかけているせいだろう。夜遅くに届いたのは、体を休める時間がなかったのではないだろうか。
ニコラは旅のことをほとんど書かなかった。ラシャに見せたい風景だなんて、どうでもいいようなことを書いている。
ラシャに知られたくないのか、関係ないから書かないのか。返事を書かないラシャが言えたことではないが、他のことも書いてほしいと思う。
ニコラが旅立ってから半年、初めて手紙が届かない日が続いた。
生きていれば手紙が届く。それは送る側も同じ。ニコラに何かあったのだろうか。こちらから手紙を出せば、ニコラの安否が分かるだろう。
――でも、届かずに戻ってきたら?
考えたくなかった。
最悪を知るのが怖くて、ラシャは何もできなかった。
悶々とした日が続いたあと、ようやく手紙が届いた。珍しく手紙鳥が一輪の花をくわえている。自分も同じスキルを持っているのに、こんなことができるとは知らなかった。
手紙鳥はいつものように、短い手紙に変わった。
花がテーブルの上に落ちる。ピンク色の花びらをした、かわいい花だ。村では見たことがない。
花びらの数を数えたラシャは、手紙に視線を移す。
「もうすぐ魔王の拠点に攻めこむ……?」
世界中の人が待ち望んでいた展開だ。
魔王を倒しました、めでたしめでたし。
皆がそうなればいいと願って、ニコラを応援している。
勇者なんて辞めて帰ってきてと思っているのは、ニコラの家族とラシャ、あとは誰だろうか。
ラシャはスキルを使った。白い小さな紙片がテーブルに現れる。
いつでも使えるように、練習だけはしていた。
ペンを持つ手が震えた。
ニコラは村にいたとき、いつもラシャに好意を伝えてきた。ラシャがそっけなく返事をしても、何度でも。手紙鳥のように。ラシャのどこを気に入っていたのか、他の女の子には見向きもしない。ニコラにとって、ラシャは特別なのだと誰もが知っていた。
ラシャはニコラに好きだと言ったことはない。なぜかニコラには伝わっているようだったけれど。
――無事に帰ってきて。何年でも待ってる。
もっとスキルを練習していれば、長い手紙を作れただろう。だがラシャは他に書きたいことを思いつかない。
手紙鳥を窓から放すと、曇り空の中をまっすぐ飛んでいった。南の方へ向かったから、そちらにニコラがいるのだろう。
手紙鳥は返ってこなかった。
ニコラからの手紙も届かなかった。
手紙を出せば、ニコラの生死はわかる。
ラシャは自分のスキルが嫌いだった。手紙を出してニコラの生死を確かめたくなる。手紙鳥に戻ってこないでと願いながら出すのが怖い。
もっと嫌いなのは、ニコラもこんな思いで手紙を出していたかもしれないと思うことだった。
罪悪感も自分への嫌悪も、全て一人で抱えないといけないのだから。
風の噂で、魔王が倒されたと知った。
ニコラはまだ帰ってこない。手紙も届かない。
ラシャはいつも通りに羊を放牧していた。羊たちは人間の事情なんてお構いなしに、草を食べ散らかしては寝そべっている。
今日も無駄に一日が終わるのかと、ため息が出た。
「ラシャ」
そろそろ羊たちを集める時間だわと考えていると、懐かしい声がした。
なぜここにいるのだろうか。嬉しいくせに、あり得ないと思ってしまう。
もう何年も聞いていない気がした。あの噂を聞いてから、一週間しか経っていないというのに。
「……ニコラ?」
「ただいま」
ややくたびれていたけれど、出発前と変わらない笑顔のニコラがいた。ラシャが反応すると、安心したように抱きついてくる。
「いつ帰ってきたの」
「たった今」
「でも、帰ってきたところは見てないわ」
放牧している草原から、村の出入り口はよく見える。ニコラが通ればすぐに気がついたはずだ。
ニコラは腕の力を緩めて、ラシャの顔が見えるようにした。
「ラシャに会いたくて、転移してきた。やっと終わったんだよ。それなのに足止めしてこようとする人達がいるから……」
そう言って、ニコラは悲しい顔になった。
「隙をついて逃げてきた。村に帰るって言ってるのに、なぜか王女と結婚させようとするんだ。酷いよね。王女だって迷惑してるだろうし……」
ラシャは黙っていた。村に来る吟遊詩人は勇者と王女の恋物語ばかりを歌って、魔王が討伐されてからは結婚するかもしれないと言う。王女がどう思っているのか、推測できるだけの材料を持っていない。
「王女様、可愛かったわね。魔法使いのお姉さんも素敵だったし、旅の癒しになったんじゃないの?」
「勘弁してよ。僕はずっとラシャが好きなんだから」
「それ、ずっと言ってるよね。どうして私なの?」
ムッとした表情のニコラに聞き返すと、ほんのりと頬が赤くなるのが見えた。
「君だけは、僕を特別扱いしなかったから。勇者なんてなりたくないって言っても怒らなかった。僕を勇者じゃなくて、ニコラのままでいさせてくれたから」
「私が怒って、どうにかなる問題じゃないでしょ。ニコラはニコラなんだから」
「ほらね、君のそういうところが好きなんだよ」
ニコラは再びラシャを抱きしめた。
夢じゃない。本物がいる。伝わってくる体温と感触が、現実の証だ。
「ラシャの手紙、嬉しかった」
「ニコラが花なんて送ってくるから。返事、しないといけないって思ったのよ」
五枚の花弁は求婚。この村の風習だった。花の種類はなんでもいいけれど、枚数だけは絶対に決まっていた。
「ラシャを一人にしたくなかったから、頑張ったよ」
「そうね。魔王が消えたって聞いたわ」
「本当は魔王討伐なんて行きたくなかった。旅の途中で代わりが見つかるかと期待したんだけどね。残念ながらいなかった。僕じゃない、誰かに代わってほしかったのに」
ラシャはニコラの背中を軽く叩いた。
「知ってる。出発する前日に、行きたくないって言ってたもんね」
長かった――ニコラはラシャの肩に額をつけた。
「これでやっと『勇者』を捨てられる」
「そうね。だって、あんたのスキルは『モノマネ』だもんね」
使者つきで村に帰ってきた日、ニコラはラシャにだけスキルを教えてくれた。
ニコラは勇者じゃない。勇者が持っていたスキルを真似することができるだけの、村人だ。あの鑑定の日、ニコラのスキルに目をつけた大人たちに利用されていただけだった。
勇者と呼ばれていた人は他にいた。けれど魔王を復活させようとしていた魔族に襲撃されて、瀕死の状態だったらしい。まだ子供だったニコラは勇者の前へ連れてこられて、勇者のスキルをコピーさせられた。
あとは監視付きで対魔王用のスキルをひたすらコピーして、訓練する日々だった。
ニコラは昔から器用だった。モノマネなんて名前がついたスキルの影響だろう。だから教えられたものを吸収した挙句、勇者なんて役割まで全うしてしまった。
「ねえ、これからどうするの?」
「ラシャの両親のところへ行く」
「うちの親は喜ぶと思うけど……」
「余計な横槍が入らないうちに、約束を果たしてもらおうと思って」
「約束?」
「生きて帰ってきたら、ラシャと交際してもいいって言ってくれたんだ」
「いつの間に……結婚じゃなくて交際なの?」
「結婚はまだ早いって怒られた」
のんびりしている両親でも、そこは譲れなかったらしい。
「ラシャが花を受け取ってくれたから。いいよね?」
断るなんて選択肢は、最初からない。
ラシャは返事の代わりにニコラの手を握った。
「その前に、羊を集めてからね」
「任せて。羊を集めるのは剣よりも得意だから」
ニコラはそう言って、ラシャの頰に口付けを落とした。
ニコラが村に帰ってきた二日後、村に豪華な馬車が到着した。中から出てきたのは一緒に旅をしていた王女だ。ラシャと一緒に羊を放牧していたニコラは、王女の姿を見つけると、羊たちの影に隠れた。
「ラシャ、僕は居ないって言ってね」
言うなり、ニコラは羊に姿を変えた。旅の途中で、変身するスキルも身につけていたようだ。
王女はニコラの家へ入って行ったが、すぐに出てきて放牧している丘へ上がってきた。
「ここにニコラがいると聞いたわ」
「ええ、いましたね」
王女を騙してもいいのだろうか。ラシャは上手い言い訳を思いつかず、黙るしかなかった。
「まあいいわ。どうせ、どこかで聞いているんでしょう?」
王女は羊たちを見廻した。
「早く王都へ戻って、私たちに恋人を紹介しなさい! 旅の途中にあれだけ惚気ていたのですから、今更になって紹介しないなんて言い訳は聞かないわよ」
「え?」
王都から流れてくる話は、勇者と王女の恋物語ばかりだった。でもニコラと王女の間には、恋と名のつく感情は一切、無いように感じる。
「あなた、ニコラの恋人でしょう?」
王女はラシャに微笑みかけた。
「毎日、毎日、飽きもせず恋文を送っていたでしょう? 恋人かと尋ねれば、まだ恋人じゃないなんて弱気なことを言うのよ。もどかしくて、何度も背中を蹴ってやりたくなったわ」
仕方ないわね――王女はラシャの肩を抱き寄せた。
「あなたが村に引き篭もるなら、この子を王都へ連れて行きます! あなたが手出しできないように、城へ招待するわ。勇者の想い人だと紹介すれば、皆が彼女を欲しがるでしょうね」
「そ、それは駄目!」
羊の一匹がニコラに変わった。
「ラシャを連れて行ったら、絶対にエリゼが着せ替え人形にするから!」
確か、色っぽい魔術師の名前だったはずだ。
「それにキースがラシャに目をつけたらどうするんだよ! あいつ、可愛い女の子には片っ端から声をかけるような奴なんだから」
あの戦士の名前だろう。
「取られると思ったから、彼女のことを言わなかったのね? あの男は人のものには手を出さないわよ。それとも、まだ恋人にしてもらえないのかしら?」
どこから出したのか、王女は口元を扇子で隠した。横にいるラシャには、笑っている横顔が見える。
王女は秘密の話をするかのように、ラシャの耳元に近づいた。
「ねえ、知ってる? ニコラがあなたに手紙を出していたのは、自分のことを忘れてほしくなかったから、らしいわよ。ずっと返事が返ってこないから、恋人ができたんじゃないかって悪い想像をして、よく落ちこんでいたわ」
「イリス様!」
ラシャは顔を真っ赤にしたニコラに耳を塞がれた。
「諦めなさい。あなたは勇者なのよ。故郷に隠れ住むなんて、できるわけないでしょう? 面倒なことになる前に、王都へ来なさい。幸い、お父様はあなたが騎士団に入るなら故郷を保護すると仰っているわ」
「……人質じゃないか」
「そう受け取ってもいいけれど、よく考えて。私たちは勇者を国に留めておける利点と引き換えに、村ごと恋人を警護してあげるわ。あなたは新しく得た仕事で、彼女と新しい生活を始められるのよ」
「う……」
ニコラは迷っている。
そんなニコラを尻目に、王女――イリスはラシャの肩に手を置いた。
「ねえ。ニコラがどんな風に旅をしていたのか、聞きたくない? 彼を説得してくれたら、話してあげるわよ」
「ニコラ、今すぐ王女様の言う通りにするべきだと思うわ」
「ラシャ!?」
聞きたくないわけがない。ニコラはいつも旅のことは書いていなかった。自分が知らないニコラのことを、もっと知りたい。
王女は気を遣ってラシャたちから離れた。呑気に寝そべっている羊に近づいて、雲のような羊毛を触っている。
「王都へ行くと、ラシャと会える時間が減る……」
「でもニコラは転移魔法が使えるんでしょ? それに」
ラシャは手紙鳥を出した。
「これがあれば、ニコラがどこにいても『会話』できるわ」
今度はラシャも返事を書こうと思った。ニコラの手紙が一方的な感想にならないように。新しい手帳を買って、二人の会話を全て書き残して、二人で読み返すのだ。
何度でも。
文字にしておけば、いつでも過去に戻れる。
遠く離れていても、スキルがあれば距離は関係ない。
ラシャはようやく手紙鳥を好きになれそうだった。
ラシャが残した手記は、後の世の歴史家たちにとって貴重な資料になったとか、ならなかったとか。
お気に召しましたら、下の星で評価をお願いします。
作者のやる気が出ます。