21 離脱
ぽちゃん、とカップの中で、紅茶が跳ねた。
雫が落ちるように。けれど、一度雫が登り、すぐに降りて、紅茶が波打つ。
ぽちゃん。ぽちゃん。
紅茶から感じる、精霊の力。洗濯物をあっという間に洗って乾かした、水の使い手。その魔力が、雫が跳ねるたびに、滲むように感じてくる。
「ラシェル!」
「ラシェル様。そろそろ、お部屋にお戻りください。あなたの体調が悪くなってしまいます」
「大丈夫ですよ。まだ熱があるから、私が診ています」
「わかりました。気分などが悪くなる前に、部屋にお戻りくださいね」
「ありがとうございます」
コンラードが部屋を出ていくのを見送って、ラシェルは立ったまま、小さく息を吐いた。
普段は凛とした態度で、理不尽に舌打ちしながらも、正面を向いて歩くような、気丈な女性だ。堂々とした態度をしているせいか、身長が高くなくとも、小さく見えることはない。
けれど、今後ろ姿を見ていると、やけに華奢に見えた。
「公爵様!? 目が覚めたんですか!?」
「ラシェル……」
ラシェルは、振り向くと、すぐにベッドに近寄った。眠っていないのか、顔色が悪く、目の下が青白い。
(戻ってきたのか)
部屋はヴァレリアンの寝所で、ベッドは自分が使っているものだ。
ラシェルが大丈夫だと呟くのを聞きながら、落ちてきた雨粒に包まれたのを最後に、記憶がない。
「水があれば、転移できるのか」
「手に触れるくらい近ければ。それなりに水も必要だし、魔力も必要ですけれどね」
だから、川から落ちても無傷だったのか。雨粒に包まれるのならば、川の水にも包まれるわけだ。水の壁を防御にして、そのまま流れたのかと思っていた。
「精霊の力とは、恐ろしいな」
「何を言っているんですか。精霊もなく、二度も転移できる魔力を持っている方がすごいですよ!!」
ラシェルは力説する。
ラシェルは魔力はあるが、簡単な魔法しか使えない。トビアがいるため、トビアの力を使うことができるだけだと言う。
転移が高度な魔法であるとわかるのは、ラシェル自身が、転移を行う際に、相当な魔力を奪われるからわかるのだ。
「トビアがいればできることであって、普通じゃ二度もできないって、トビアが言ってました。それより、気分は悪くないですか? お腹は減っていないですか? 何か飲み物でも持ってきます!」
お前が持ってくるのか?
そう突っ込みたくなる。メイドの仕事に慣れすぎだろう。本来は、子爵令嬢であるのに。
それでも、メイドをしなければならない事情。
部屋を出て行こうとするラシェルの手を取れば、お水ですかと、水差しを手にしようとする。
「そうじゃない。……大丈夫か?」
「私ですか? 大丈夫ですよ。さっきも言った通り、トビアの力を借りているので、」
「そのことではない」
言葉を遮ると、ラシェルは口を閉じて、一瞬混乱したような顔をした。
しかし、一歩遅れて、「まったくもって、なんの問題もありません」とはっきり口にする。
「むしろ、寒気すら感じます。なにをどうして、あそこまで、いってしまったのか。あんなに、変な人だったかなって、思った程度です」
ラシェルは肩をすくめる。それは嘘ではないだろうが、憔悴しているように見えた。
未練も何もなく、あの男の一挙一動に、心を痛めることもない。
(それほど、吹っ切れているのだと、言ってくれれば、安心できるのだが)
「私よりも、公爵様の方でしょう。まだ熱は高いですし、ずっと寝ていたんですよ。二日も!」
「たいしたことではない」
「何言ってるんですか! たいしたことあるでしょう!? どれだけ心配したと思っているんですか!」
「心配したのか? だから、そんなに顔色が悪いのか?」
頬に触れれば、ラシェルは触れた部分を赤く染めた。
「ち、がいます。これは、眠っていないからです」
「眠れなかったのか? 俺を心配して?」
「ち、……無茶しすぎて寝込む人ですからね」
嫌味は忘れないらしい。素直に心配したと言わないあたりが、このラシェルという女性か。
その割に顔に出ているのだから、なんともおかしくなってくる。
「何笑っているんですか」
「いや。心配させて、申し訳なく思っている。君を、危険に晒したことも」
「私は大丈夫です。それよりも、もう少し休んでください。熱が下がっていないんですから。今、コンラードさんを呼んできます」
ラシェルは子供をあやすかのように、毛布を軽く叩いた。もう大丈夫だと、落ち着かせるような、優しい手だった。
(クリストフがなついた意味がわかるな)
貴族は心のうちを隠すことを求められるが、ラシェルの地の性格はそれとは真逆で、平民のように表情に出し、素直に笑う。それはたしかに貴族としてあるまじき態度であるが、時と場所は弁えている。
それを見たのが街中であれば、クリストフからすれば、表情豊かな魅惑的な女性と見えただろう。
そして、口うるさく言う割に面倒見が良いのだから、クリストフが興味を持つことが想像できる。
ラシェル・ボワロー子爵令嬢は、両親共に金遣いが荒く、親の遺産を食い潰すような、愚鈍な輩だった。どこで親を見限ったのかはわからないが、ラシェルは一人、屋敷を抜け出して街へ働きに出る。
街の平民の給料などたかが知れているが、貴族として生きる気がなければ、国外に逃げるための金は稼げるだろう。時間はかかるが、無理なことではない。
精霊の存在が、彼女を大きく助けることになった。そう考えて、頭の中でかぶりを振る。
「そんなことで、諦める女性ではないか」
精霊がいなくとも、何かを考えて、実行する性格だろう。
クリストフの趣味は良かった。けれど、それだけだ。
「クリストフには勿体なさすぎるな」
ノックの音が聞こえて、コンラードがやってくる。ラシェルは部屋で休んだようだ。姿が見えない。
「お部屋にお戻りです。ずっと寝ずに看病されていましたから」
「余計な心労をかけたな」
「そうですね。それでも、良いご令嬢です」
なにをいうでもなく、コンラードはラシェルの素行を褒める。だから今詫びろと言われても、もう後戻りはできない。すでにクリストフが事実を知った。これから、どう出てくるだろうか。
「状況は?」
「騎士は二人とも生きていますが、容赦はなかったようで。二人とも重症ですよ」
「クリストフはそれなりの使い手だとは知っていたが、それほどだったか。あれだけ警戒しろと言っていたのに。だが、王妃の手下かと思えば、クリストフとはな」
「本人が攻撃してくるとは、ラシェル様も驚いていらっしゃいました」
「あれほど狂っているやつだとは思わなかった。昔は、もう少しおとなしいやつだったはずだが。王妃の洗脳がうまくいっていたのだろう」
「それにしても無茶されましたね。しばらくは動けません」
「わかっている」
ラシェルを巻き込んでしまったのだから、彼女を守らなければならない。それなのに、この体たらく。むしろ彼女に守られることになってしまった。
「情けないことだな」
「そうであれば、今後のことをお考えください。それと、こちら、お手紙が届いています」
渡された封蝋の印は、見覚えのない印だ。中は確認したと、コンラードが差し出してくる。
「今後、必要な方になるかと」




