20 囮
「海には、いつ行こうか」
「勝手に参りますので、お気になさらず」
「婚約者どの。寂しいことは言わないでほしい。二人きりで海を眺めるのも、素敵だと思わないか?」
「その書類の束を、終わらせる必要があるのでは?」
机の上に積まれた書類や手紙を前にして、ヴァレリアンはそれらを見ぬふりをして、お茶に口をつける。
婚約をあちこちに吹聴したため、多くの貴族たちから自分の娘はいかがかと、連絡が来ているようだ。
なにせ、相手は男爵令嬢。家柄の良い令嬢の方が良かろうと、フリューゲン王国の貴族たちからひっきりなしに手紙が来る。
引きこもっていたのに、急に男爵令嬢をパーティに連れてきた。多くの貴族たちが、公爵の相手に娘をと差し出してくるわけだ。
彼らは王妃のことを知らないのかもしれないし、知っていて娘をスパイにするつもりなのかもしれない。
カバラ国の貴族と行っている、事業の繋がりを調整するのも忙しいらしく、それも相まって、ヴァレリアンは机の前で鎮座している。
普段参加しないパーティに、出席しすぎということもあった。普段よりも外出が増えて、仕事が溜まってしまったのだ。
『ざまあみろだね』
内心考えていたことを、トビアが代弁してくれる。
「これは、いらん。全て燃やせ」
「将来のパートナーになるやもしれませんのに」
「必要のないことだよ。僕には君だけで十分だ」
「コンラードさんしかいないので、その演技はやめていただきたいです」
ラシェルのあしらいに、ヴァレリアンは肩をすくめる。
外面を良くする時は、僕と言うところが気持ち悪い。気の弱いふりでもしているのだろうか。
暇ではないだろうに。わざわざ書斎にラシェルを呼んで、ヴァレリアンが仕事をする前でお茶をさせる。身内にもスパイがいて、婚約は嘘ではないと思わせるためなのだろう。
美味しそうなケーキを目の前にして、トビアがほしそうにしてねだるので、机の上に現れたトビアにも分けてやる。
『これ、美味しいよ! 僕、好きだな』
果物のケーキが大好物なトビアは、イチゴが挟まれたスポンジを頬張った。
「ケーキを食べるのか?」
素朴な疑問なのだろう。ヴァレリアンは書類そっちのけで、イチゴを丸ごと口に入れて飲み込んでいるトビアを見つめる。
「精霊によると思いますけれど、トビアは甘いものが好きなんです」
姿は見えているが、話している声は聞こえていないようだ。
トビアが生クリームに顔を突っ込むかのようにして食べる様を、ヴァレリアンは不思議そうに見つめた。
「どこで精霊を手に入れたのだ?」
「精霊との契約にご興味がおありですか?」
「当然だ。普通の人間は、一生精霊に会わないことの方が多い。王宮にいる精霊使いも、王宮で確保している精霊に選んでもらうが、その辺で簡単に得られるわけではないからな。精霊を得られるのは稀だろう」
フリューデン王国では、王宮で確保している精霊がいる。魔力の強い者で、精霊と相性の良い者が、精霊使いになれた。野良の精霊に会えるのは稀だ。そもそも精霊の数が少ない。人気のない、自然豊かな場所に住まう精霊である上に、人に会っても、魔力がなければ精霊との契約は行えない。
それを言うならば、ラシェルは運が良かったのだろう。
『ラシェルが池で溺れてたからだよ』
(言わなくていいのよ。トビアちゃん)
ラシェルは幼い頃、両親の目を盗み、近くの森で遊んでいた時、池で溺れかけたことがある。
その池で休んでいたトビアが、たまたま助けてくれただけだ。トビアを見て手を伸ばしたところ、足を滑らして池に落ちたので、トビアもバツが悪かったのである。
王宮の精霊使いたちにそんな話をすれば、恨まれるだろう。それで精霊と契約できるのかという話だ。しかし、トビアはその幼い少女に、興味を持った。
『鈍臭かったから、ついていってあげただけだよ』
(それも言わなくていいのよ。トビアちゃん)
溺れて息をしていないラシェルに驚いて、トビアが契約を一方的に行い、ラシェルから飲み込んだ水を消してくれた。
トビアにとって小さな子供は珍しいものであると同時、未知な生物だった。それがいきなり水に入って動かなくなったのだ。トビアは相当慌てたのである。
(おかげでトビアと契約できたのだから、私としてはありがたかったけれど)
運が良かった。ただそれだけ。人に話すような話ではない。
「部屋の水槽で悪いが、それで我慢してくれ。海は当分先だ」
「城の外に出ても良いのですか?」
「メイドの仕事もないのだから暇だろう。君は働くのが案外好きなようだから」
「お給料が好きなだけです」
外国に逃げるための、大切な資金だ。メイドの分はちゃんといただけるんだろうな? と目で訴える。
ヴァレリアンは小さく笑った。
「婚約者どのが自由にできるそれなりの額を渡そう。街に行くのは構わないが、必ず騎士を伴ってくれ」
街に行って買うものなどないのだが、これ以上部屋にいても邪魔なのだろう。
紅茶を飲み干して、ソファーから立ち上がる。
「お礼を申し上げるのが遅くなりました。贈り物、ありがとうございます。トビアが喜んで使っています」
「君は?」
「ネックレスはいただきました」
「他にも喜んでもらいたかったが、君はああいうものは好まないな」
わかっていたか、それでも贈る必要があったわけだ。
(どこにスパイがいるのかわからないと、大変ね)
「出かけるならば、気を付けて行ってくれ」
「わかりました」
婚約を発表してから、ラシェルには騎士が二人ついた。
部屋の前に陣取る騎士たちは、廊下を移動するだけで、後をついてくる。
いつも監視されているようにも思えるが、それがヴァレリアンなりの警戒であることは承知だ。
『海に行っちゃ、ダメなんだねえ。こっそり行っても、ダメだよねえ。あいつらもういないのに』
勝手に行っても問題ないように思うが、それなりに警戒はしているのだろう。
(そこに騎士をつけるとは思わなかったけれど)
囮にするならば、騎士など必要ない。スパイがいても、放置しておけばいい。さすがに街に行くのに騎士の誰もついていないのは問題だが、城の中ならばそこまでする必要はない。
囮にするならば。そう、囮にするならば、だ。
『囮にする気。本当になかったのかねえ?』
トビアも疑問に思ったか、腕を組みながら首を傾げる。
気分転換に街に出ていいとのことなので、街に出ることにしたが、馬車の外は警備の騎士が二人ついた。
周囲を警戒し、あちこちを見回しているのを見る限り、王妃からの攻撃を警戒しているのだろうが、警戒が強めなので、隙が少ない。馬車を襲うにもあそこまで警戒されれば、襲撃が難しいだろう。それに馬車は大通りを通っている。街中で襲撃は難しいだろうが、それでも警戒を怠っていない。
『あのバカ王子の思考回路がおかしいってことは、あるよね』
「普通に考えれば、私が生きているとは思わないわね」
『あの王子さあ、抜けてるところばっかなくせに、変に勘がいいんだよね。野生の勘って言うの?』
トビアは思い出したと、辟易した声で言う。
『ラシェルが他の女の人より強いって感覚がさー、超人的に強いって錯覚してたじゃん? あれって、本能的にラシェルの力に気づいてたからだと思うんだ』
「助けてもらったから強いと思っているのではなくて?」
街で助けた時から、絶対的な信頼のようなものはあった。ラシェルについていけば、大丈夫。という謎の信頼だ。そこに強さはあっただろうか。悪漢から守ったため、そのような錯覚はあるかもしれない。
なんにでも感心しているのだから、ラシェルに聞けば全てがわかるとは思っていただろうが。
(だからと言って、超人的と思われるのも)
「クリストフは、魔力は多いのよね。精霊とも契約できるのではないかという話は、照れながら言っていたわ。アーロンが」
『ああ見えて、すごく強いんですよって、言ってたね』
抜けているだけで、トビアのことに気づかなくとも、ラシェルの強さは感じ取っていたとなれば、今回のことも納得できるだろうか。
『実際、生きているしねえ?』
そう言われてしまうと、何も言えない。
『バカ王子がラシェルのこと生きてるって考えるのは、あの公爵は想像できないから、囮にする気はなかったとして、婚約すれば守れるってのは、間違いないんじゃないの? ラシェルを助けて、王妃に殺されかけたって知って、ラシェルを保護したって言い方もできるんだし』
トビアはヴァレリアンを擁護する。騎士たちの警備を考えれば、その可能性もあるというだけなのに。
(水槽をもらってから、ヴァレリアンへの壁がやけに低くなったような気がするのだけれど?)
どちらにしても、狙われることになってしまったのだから、その責任はとってほしいものだ。
「婚約以外の責任でお願いしたいわねえ」
『ラモーナさんちのメイドにして貰えば』
「それ、名案ね」
『婚約って言っちゃってるから、無理だと思うけど。ーーーラシェル!』
「きゃあっ!」
突然、トビアが大声を上げた。その瞬間、馬車が急停車し、前のめりになって、座席から転がり落ちる。
「なに!?」
『あいつだ!』
その言葉に、ラシェルは背筋が粟立つのがわかった。




