2−2 出会い
「ラシェルは子爵令嬢なんだね」
「それがどうかしたの?」
「いや、それなら何とかなるかと思って」
何とかの意味は分からない。アーロンはこちらをを向いて、ゆるりと微笑む。
「君と、もっと一緒にいたい」
「私も、一緒にいられたら楽しいわ」
おそらく身分はかなり離れている。アーロンは自分の身分について口にしないし、それについて今後も話さないだろう。どこかの身分の高い貴族の息子で、気晴らしに遊びにきているくらいではなかろうか。
一緒にいて気が楽で、時を共にすると、幸せになれた。価値観の違いはあるにしても、争うことはない。真新しいものに驚きながら、お互いの知識をすり寄せて、理解し合えるのだから。
だが、結局離れて、別れる時が来る。それは残念に思うし寂しさはあるが、この時間はずっと続かないと思っていた。身分の違いはどうしようもないからだ。なんといっても、ラシェルの両親は金食い虫で、借金まみれであり、支度金も用意できない。
そんな親を持つ娘を、誰が欲しがるというのか。
けれど、
「迎えにきたんだ」
「この方はフリューデン王国の王太子殿下、クリストフ様です」
「僕と共に、王宮に」
嘘でしょう!?
貧乏子爵令嬢が王宮に。両親は大喜びでラシェルを送り出す。婚約のために娘が王宮に住むなんて信じられないと言いながら。
無条件で婚約者に選ばれたのだ。貧乏子爵家では王子の相手に恥ずかしいと資金をもらうほどで、両親の喜びようは表現しきれないほどだった。
混乱している間もなく王宮に到着し、ラシェルは王太子殿下の婚約者となった。
はずだった。
婚約者と言われたが、王妃が難色を示したのだ。
それも当然だと理解していたが、まあ、その後の地獄の日々よ。
王妃は明らかな蔑みの顔を見せ、婚約するには教育が必要だと言いながら、婚約者候補という立場に設定したあと、他の候補という令嬢たちを集め、いかに貧乏子爵令嬢が王子の婚約者に向いていないかを、とくと説いてくる。
それくらいは想定内だが、王妃推薦の婚約者候補であるイヴォンネ・オーグレン伯爵令嬢は、敵対心丸出し。他の候補者たちは名ばかりのいじめ軍団で、メイドたちも同調して嫌がらせの日々。教育などは一切なく、部屋にぽつりと一人にされて、食事すら運ばれない。
泥が入った水だけが部屋にあり、部屋も埃だらけの屋根裏部屋。冬なのに暖房もない。衣装も替えすらなく、着の身着のまま。
クリストフが訪れる時だけ念入りに化粧をされ着飾らせ、クリストフの前だけラシェルを敬い、大切に接しているかのように見せる。
クリストフとの食事では、食事の中に異物が混入しており、味もおかしい。混ぜられた腐った食品。ご丁寧に見目だけはわからないようにされている。
その状況で、嫌がらされをされていることを言っても、クリストフには信じてもらえない。王妃から呼ばれては、さっさと出ていけと罵られたと言っても、信じてもらえない。
そのうち盗みをしたと言われ、呼び出されれば王妃に飛びかかったなどと。
何もしていないのに、貧乏な子爵令嬢だからという王妃たちの言葉に、クリストフは哀れみの目を向けてきた。
(結局、あなたも私を下に見ていたのでしょう。そんな宝石、私は興味などないのに)
なのに、クリストフはラシェルの話を信じようともしなかった。
悲しく思う時は、もう過ぎた。今はもう、やっと終わるのだという気持ちだ。
「耐えていても、仕方がなかったのよ」
ラシェルは皮肉げに口元を歪める。
「いつか追い出されると思っていたけれど、まさか、遠くの地に追いやられるとは思わなかったわ」
しかも、クリストフは止めようともしなかった。
「時間を無駄にしてしまったわね。婚約がなくなったことは、両親になんて伝わるのかしら」
帰りたいと手紙を出しても、両親は聞こうともしなかった。何度も無視されて、いい加減諦めた。婚約が決まったことで見栄を張り、高価なものを買い続けているつけが、そのうちくるかもしれない。そう思っていたが、思ったより早くその日が来たようだ。
ため息混じりで窓を見やる。本来ならば外を眺めることができるはずなのに、外側に板が貼られ、窓を開けることができない。そのため、今どこを走っているかわからなかった。どこまで行くのか。嵐のような雨の中、馬車は止まらず。ずっと走りっぱなし。いい加減お腹も減ってしまっているし、お手洗いにも行きたい。空腹がひどすぎて、揺れで馬車酔いしそうだ。
雨に濡れたドレスで体は冷え切っている。しかし、タオルを渡すことすらしないのだから、考えているより状況は悪い。
一日中無理に馬で走らせて、馬を潰す気だ。町に辿り着けば、宿の部屋に押し込められる。着替えもなければ食事もない。見張りが付き、逃げることを邪魔してくる。御者が哀れみの目を向けてくる。それもそうだろう。道途中休憩に入っても、馬車の外にも出してもらえない。その間、水も食事もない。部屋に入っても同じ。
これを、離宮まで続ける気だ。
普通の令嬢ならば、耐え切れるものではない。
そうして、その状態が数日続き、いい加減、着ているドレスが匂ってくる頃、強風が吹き荒れる音が続く中、激しい水音が聞こえてきた。
耳にできる音からして、川の近くだ。
(あら、止まった?)
橋の手前なのか、馬車は止まったが、動いている時とは違った揺れを感じる。吊り橋の上にいるようだ。
ガチャリと開けられた扉の向こうに、雨に濡れたまま剣を手にしている騎士がいた。
「何をする気ですか!?」
「大人しくしてくれていたのに、残念だな」
馬車の中に、風と共に雨が入り込んで、飛沫が舞った。騎士は剣で脅しながら、外に出てこいと言ってくる。盗賊に襲われたふりでもして、川へ落とす気なのか。
「さっさと降りろ。商人でも通ったら面倒だ。ここは公爵の土地に近いからな」
「王妃の命令なの?」
「他にいるか? 貧乏子爵令嬢でありながら王太子殿下の婚約者など、身の程を知るんだな。今更な話だが」
クリストフは知らないのだろう。母親がラシェルを殺そうとするなどと。
愛している。必ず守る。そんな言葉を口にしながら、ラシェルの言葉を信じようともしなかった。
「いいから、降りろ!」
男が剣で脅してくるその姿を、ラシェルは歯噛みしながら見つめていた。