10−2 公爵家
「多いんじゃないか?」
サイラスはグラスを拭きながら、さも当然と言わんばかりに口にする。
「聞いていないのだけれど?」
「聞かなかっただろう」
にやりと笑うその髭面に、一瞬殺意が芽生えても仕方がないだろう。サイラスは殺気を感じたか、すぐにその顔を止める。
「というのは冗談で、関係ないと思っていたんだよ。俺が紹介したのは公爵が生活する本棟じゃなくて、仕事場の中央棟だったからな。中央棟からメイドが移動することは、あまりないんだよ。あっても余程長く働いた者か、公爵の関係者からの紹介を受けた者くらいしか入れないんだ」
だから、入ったばかりのミシェル・ドヴォスが本棟に入るのは、とても珍しいことなのだ。
「どうかしたのかい?」
「目を付けられたみたいなの。監視されているのよ」
「おいおい、それでここに来たのか?」
「安心して。つけられるようなヘマはしていないから」
「ならいいけどなあ」
サイラスはしばらく公爵領にいる気なのか、酒屋の主人としてカウンターでグラスを拭いている。客は数人いて、それらが本当に客なのか、それとも別の何かなのかはラシェルにはわからなかった。
二人ほど怪しい男がいるが、サイラスの仲間を指摘する必要はないと、無視を決め込む。
「この店、いつからやっているの?」
「何年も前からですよ、お客さん」
「では、公爵家の事情は、色々知っているのかしら?」
「何から聞きたい?」
それはもちろん、王妃の話だ。
公爵夫妻が事故で亡くなった。それはラシェルも知っている。とはいえ、何年も前の話なので、さすがに詳しくない。噂されている頃、ラシェルは子供で、公爵家を知った時には、すでに公爵夫妻は事故で亡くなっていた。
「王が王弟の妻に懸想していたというのは、知っている?」
「仲が良かったとは聞いたことがあるよ。幼い頃からの知り合いで、王と王弟どちらを選ぶのか、という話はあったそうだ。だが、王の婚約者には王妃が選ばれた」
「王の婚約者が先に決まったのかしら?」
「そうだよ。王妃の親が積極的だったことも関係しているだろう。王妃は侯爵家の人間だったが、相当な金持ちだった。金に物を言わせている侯爵家は、金回りがいい分、味方が多い」
次期王の相手なのだから、政治が絡んで当然だ。王は公爵夫人を選ぶことはできず、王妃を娶った。そこに本人たちの恋愛感情など必要ない。
「王妃が王弟を好きだったとかは、ないのよね」
「ないんじゃないか? なにが聞きたいんだ?」
サイラスは知っているのだろうか。王妃が公爵夫妻を殺そうとしたことを。
ラシェルはちろりと後ろを確認する。それに気付くと、サイラスは別の部屋へ案内した。周囲に聞かれていい話ではない。
「なにかあったのか?」
「王妃が、公爵夫妻を殺したと、現公爵は思っているみたいなのだけれど」
サイラスは沈黙した。表情をなくすあたり、聞いている話ではあるようだ。案の定、頭をかいて、小さく唸り声を上げる。
「一般的な噂じゃないんだが、賊に追われて事故にあったんじゃないかってのは、俺も聞いたことはあるよ。だが、都でそんな話をすれば、殺されかねない。黙っていた方がいい話はあるだろう?」
「ならば、そういう話があったのね」
「受け持ったらしきやつらが、全員死んでいる。死人に口なしだ。だから、真実かどうかはわからない」
賊が公爵夫妻を追って事故になったとなると、殺そうとして逃げられたことになる。その時に襲った者たちは、皆殺された。証拠を集めるにも、どうにもできない。
その時のヴァレリアンは子供で、そんなことを調査する力もない。そんな情報も入ってこなかっただろう。
「王妃が王弟を好きだったとか、恋人同士だったわけではないのでしょう? 王と結婚しているのに、王妃がそこまで公爵夫妻を恨むのかしら」
素朴な疑問だ。そこまで危険な真似をするほどの問題だったのだろうか。
「王によって王妃が蔑ろにされた。自分より王弟の妻を慮ると、王弟夫妻を恨んだ」
「そんなことで、殺す?」
「さてね。女の嫉妬が醜いのかは、人によるんじゃないか」
嫉妬して、王弟夫妻を狙い、二人とも死んだにも関わらず、その子供のヴァレリアンも狙うとなると、なかなか根深い話である。
クリストフも、ヴァレリアンにはあまり良い印象がない。王妃が公爵家を毛嫌いしていたのを、子供心に感じていたからだ。
しかし、それで王妃がしつこくヴァレリアンを狙ったとして、何になるのだろう。
「王との子供とか?」
「発想が下衆だな」
「一般的な考えでしょう。それならばわかるわ。クリストフ以外に、王はいらないのだから」
ただ、それであると、側室の産んだ第二王子も立場は同じ。サイラスも肩をすくめて、それだけならば、すでに第二王子が死んでいると口にする。
クリストフには年の離れた弟がいる。会ったことも見たこともないが、クリストフには異母弟がいるのだ。クリストフですら、あまり会ったことがない。第二王子の名前はなんと言ったか。
ラシェルが住んでいた離宮は、クリストフの住んでいた宮から近かったが、第二王子と第二夫人が住んでいる宮は、庭園を挟んで、はるか遠くの森の中にあった。王が倒れてからそちらに移動されたと聞いているので、王妃の闇を感じる。
「王弟の子供には違いないだろう。公爵夫人は王と王弟と仲が良かったが、子供ができたのは公爵領に入ってからだ。時期が合わないんだよ。王が公爵領まで遊びに来てたら、話は違うがな」
「ならば、ただの嫉妬で、公爵夫人と公爵、さらにその子供までも憎いってことなのかしら」
それで暗殺者の出没率が高いとなれば、粘着質な嫉妬だ。
「そうそう。本物の話だが、妊娠したそうだよ。元気にしているようだ」
「幸せならば、良かったわね」
元、ミシェル・ドヴォス男爵令嬢。彼女は家出をして、ドヴォス家で働いていた男と結婚した。
彼らの家出を手助けしたのは、サイラスである。ミシェルの家出を助けておいて、その娘の戸籍を埋める手伝いをしているのだから、これを知ったらドヴォス夫妻は大激怒だろう。
なんともあくどい商売だ。身分を偽るための手伝いが、家出から始まっているのだから。両親たちはサイラスに騙されているも同様。ずる賢い商いをしているものである。
だが、そのおかげでラシェルは助かっている。何も言うまい。
「公爵家には長くいられそうにないから、次の働き場所を見つけてくれないかしら」
「はいよ。見つかるまで、王宮とまた違う緊張感がありそうだが、頑張ってくれや」
「本当に」
グラスに残った酒を飲み干して、ラシェルはその場を後にした。




