9 本棟
「場所替え、ですか?」
突然メイド長に呼ばれたと思ったら、移動を命じられ、ラシェルは首を傾げた。
人が少なく、多くの雑務をこなさなければならないメイド仕事だが、せっかく慣れてきたところだったのに移動とは。
「本棟の方へ行ってちょうだい。失礼のないようにね」
本棟には入ったことがない。公爵が住む居住区だからだ。
そちらは警備の多さが違う。なにかから警戒していると思うほどで、メイドでも入れる者と入れない者がいた。今までのラシェルの立場では、本棟に入ることはできなかった。厳格に分けられているので、暗殺でも警戒しているのかもしれない。
そんなところに移動とは。気楽に休憩などもできなさそうだ。
しかし、失礼のないようにとは。専属でもあるまいし、偉い人に会うことなど、そうないだろう。
廊下で会うくらいだろうか。
渡された新しいメイド服に着替え直し、ラシェルは本棟へ移動した。
「ついていらっしゃい」
メイド長は初めてここに来た時に会っただけで、ほとんど姿を見ない。どうやら普段は本棟にいるようだ。
本棟は落ち着いた色合いの建物で派手さはないが、重厚で落ち着いた雰囲気がある。王弟の趣味だろうか。
しかし、本棟に入ってから、警備でうろついている者たちしか会うことがない。他にメイドはいないようで、廊下ですれ違うのは衛兵や騎士ばかり。
外よりも警戒が強い。
一抹の不安を覚えながら部屋に入り、頭を下げる。
「メイドの、ミシェル・ドヴォスです。公爵様にご挨拶を」
メイド長に促されて挨拶をしようと頭を上げれば、すぐに逃げ出したくなった。
『あちゃー。ラシェル、どうするの?』
あちゃーと言われてもどうしようもできない。意識を失ったふりでもして逃げるか? そんな真似をすれば、いかにも怪しいやつですと言うようなものだが。
(最悪だわ)
『最悪だねえ』
部屋に入れば、見覚えのある男が、ソファーでふんぞりかえっていた。
黒目黒髪の男。公爵家に出入りしている騎士かそこらだと思っていた、あの男だった。
ヴァレリアン・ブルダリアス公爵。それがなんで草むらで寝転んで休んでいたのか。そして街をうろついているのか。色々突っ込みたいが、まさかこの男、ラシェルを知っていたのだろうか。
そう考えてみたが、クリストフが外部の誰かにラシェルを紹介することはなかった。王妃やその他の婚約者候補たち、後はメイドで、大勢のいる場所に連れられたことなどない。
これだけ整った顔で、若くして公爵になったのならば、パーティにでも参加すれば嫌でも耳に入るだろう。クリストフもずっと会っていないと言っていたのだから、公爵がラシェルの顔を知っているわけがない。
ブルダリアス公爵は王宮にほとんど出てこない人だ。
だが、アーロンから逃げようとしたラシェルを、この男は見ている。
「ミシェル・ドヴォスと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
何を考えて、ラシェルの場所替えを命じたのか。
挨拶をして返事を待てば、前と同じように、口端だけで笑ってきた。
「これからは、私の身の回りの世話を」
その言葉を聞いて、唾を飲み込みそうになる。この男は自分に何を求めて、側に置く気なのか。
「仕事はメイド長に聞いてくれ。部屋は本棟に移動させるといい。部屋を変えたら、仕事を始めてくれ」
今使っている部屋は離れで、メイドたちだけが住む場所になった。そこから移動して、本棟にある部屋に住めという。
普通のメイドからすれば、待遇がかなりの好条件に変わるのではないだろうか。
そこに、どうして、ラシェルを選んだのか。怪しげな者だと思うのならば、解雇すればいいのに、近くに呼び寄せるなど、嫌な予感しかしない。
「質問をしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ?」
「なぜ、私をお選びになられたのですか? 私はこちらに来て日が浅いですし、下働きを行っておりました。公爵様の身の回りの世話など、恐れ多くて行える自信がありません」
「魔法が使えるのだろう?」
ヴァレリアンは間髪入れず答える。
「私はとある者から狙われている。警備として使えるに越したことはない。力のないメイドが戦いの邪魔になっても困るからな。丁度そんなメイドがいないか、探していたところだ」
「ほんの少し力がある程度です。戦いなどしたことありませんし、役立つとは思えません」
「それなりの金は出す。君の身元ははっきりしているのだし、問題はない」
はっきりしている。のところだけやけに強調して聞こえた。
ラシェルが身分を買ったことを知っているような口ぶりだ。
公爵なのだからそれくらい調べられるのか? サイラスの裏世界の力を使っているため、そう簡単には気付かれないはずだが、公爵にどれだけの情報網があるのかわからない。
「詳しいことは彼女に聞いてくれ。しっかりと働いてほしい」
有無を言わせず、ブルダリアス公爵は会話を終わらせた。言い切られたら部屋を出ていくしかない。ラシェルは首を垂れて、仕方なくブルダリアス公爵の部屋を出た。
命を狙われている? それなりの警備をしているだけあるのだから、それは事実だろう。
とある者というのも気になる。
(まさか、王妃から狙われているとか、言わないわよね?)
身元がはっきりしているとはいえ、たかが水の魔法を使っただけのメイドを信用し、側に置く気になるだろうか。
ラシェルが精霊の力を使ったのだと、気付かれているのではないだろうか。
王妃から対抗するために、精霊の力をほしがったとしたら。
(冗談じゃないわ……)




