8−2 街
アーロンではない。黒髪の男に腕を引っ張られて、脇道に引きずりこまれる。
一体何事なのか。小道に入れば、口元を覆われて、背中から拘束されたのだ。
「騎士から逃げているのか?」
頭の上から届いた声は、前にも聞いたことのある声だ。
あの時、庭で寝転がってさぼっていた男と同じ声。
口元の手をゆっくり離されて、ラシェルは拘束された腕から抜け出す。けれど、腕はしっかりと握られて、離れることができない。
「別に、逃げてなどおりませんが? 向こうに行こうかと」
「そっちは行き止まりのゴミだめだぞ」
腕を振り払って進もうとすると、すぐに男から突っ込まれる。
「道を間違えたみたいです」
踵を返そうとしたら、アーロンがこちらに向かってくるのが見えた。鉢合わせたら、気付かれる。
そう思った瞬間、再び腕を引かれた。ラシェルはバランスを崩しながらも、引かれた腕の方へ足をすすめる。
「な、何ですか」
「騎士から逃げたかったのだろ?」
「ち、がいますよ!」
しかし男は走り出し、ラシェルもそれに促されるように走り出した。後ろでアーロンの声が聞こえた気がしたが、振り向く余裕はなかった。
腕を掴む力が強い。人一人通れる細い道を走り、階段を降りて、迷路のようになった分岐をいくつも進んでいく。
坂道の多い街なのか、階段を登ったり下ったり。川を跨ぐ橋を渡り、人の家の前の小道を走って、やっと足が止まったその場所は、小さな川の前だった。
「ここまでくれば問題ないだろう」
「騎士に追われているわけではなかったのですけれど?」
「ふは。そうか? 気にしているように見えたが」
「気のせいです」
目の前にいる男は、やはり城で会った黒髪の男だ。騎士のような衣装ではなく、しかし平民とは思えない格好をしていた。商人の警備でもしていそうな、身軽な格好。薄めのシャツに裾の長めなチョッキ。黒のパンツ。そして、銀色の剣をベルトで固定している。
貴族なのだろうが、お忍びで、街で遊んでいるような格好だ。読めないのは、なぜラシェルが追われていると思って、助けようとしたかだ。
「あいつらはしばらくうろついているぞ。離れるならば裏道を使うんだな。この辺は道が入り組んでいて、水路に繋がっているところが多い。民家の裏にある水路は橋が少ないから、渡る道を覚えておいた方がいい。最近この街に来たのだろう?」
「独り歩きをしたことがなかっただけです」
男爵令嬢は一人で街をうろついたりしない。両親が嫌がるからだ。
ミシェル・ドヴォス男爵令嬢の両親は厳格だった。ラシェルの両親と違い、子供に過干渉だった。そのせいでミシェルは恋人と家出してしまった。相手の男は屋敷で働いていた男だ。街に出かけるにしても、男が一緒で、裏道など歩いたことはないだろう。
だから、ミシェル・ドヴォス男爵令嬢としては、嘘ではない。
男は、城で会ったことは覚えているようだ。メイドの名前を調べれば、ミシェルの身元はすぐにわかる。
「ふうん」
男は口端を上げて、細目にした。その笑みには色気があって、気のせいか、誰かを思い出させた。
「ならば、これからは覚えることだな」
「そうします」
「これからどこへ? ご案内しましょうか。お嬢様」
「ただうろついていただけです。そろそろ帰ろうかと思っていました」
「それは、残念。うまい店を知っているのだが」
「先ほどお菓子を食べたので」
「道端で菓子を頬張っていたな」
いつから見ていたのか。まさかつけていたのか?
黙っていると、男はただ静かに笑う。その笑い顔に含みを感じて、警戒心が膨らんできた。
「うまい菓子の店ならば他にもあるぞ。また会ったらぜひ案内しよう」
「いりません」
キッパリと断れば、男は大きく吹き出した。そうして、口端だけで笑いながら、男は細い川を飛び越えて、建物の影に隠れるように姿を消した。
「何なの、あの男?」
助けてくれたとしても、どうしてラシェルが、アーロンたちから逃げようとしていたことに気付いたのか。
「……関わりたくないわね」
『今日はもう、帰った方が良さそうじゃない?』
トビアの声に頷く。城の人間に、変に思われたくない。せっかく久し振りの街歩きなのに、残念でならない。
それもこれも、あんなところに王宮の騎士がうろついているからだ。
アーロンは公爵領にいつまでいる気なのだろうか。
もしアーロンに見付かれば、それはすぐに王妃に伝わるだろう。戻れば再び殺そうとしてくるはずだ。
それでも、クリストフは王妃の仕業に気付かないに違いない。
クリストフはきっと、考えもしないだろう。
「私の話なんて、聞く耳持たないものね」
さっさと王宮に帰ってくれればいいのだが。いい加減、このまま放っておいてほしいものだ。
ラシェルはため息混じりで、仕方なく、城に戻ることにした。




