8 街
久し振りの街歩きに、ラシェルは上機嫌だった。
「ここが噂の、美味しい焼き物屋さん」
甘い香りが鼻腔をくすぐる。バターや蜂蜜の香りが堪らない。街遊びは慣れているため、外をうろつくのは楽しみの一つだ。
やっと休みをもらえたのだし、ここは買い物を楽しみたい。
貴族の好む高級街は避け、広場の方へ向かう。
公爵領は王弟に渡された領地であって、かなり栄えていた。王弟が早くに死んだため、噂ではあまり賑やかさはないと聞いていたのだが、噂に過ぎなかったようだ。
現公爵になってから、王宮とは一歩離れた付き合いをしているため、王宮に届く公爵領の話が古いのかもしれない。いや、王が病で表には出てこなくなったためだろう。最近の公爵領の噂は、良いものとは言えない。
田舎のままだとか、北部の山村と変わりがないとか、発展がまったくない、古臭い時代のままだとか、とにかくど田舎と称された。
引きこもりの公爵は、ほとんど公爵領から出てこない。両親が生きていた頃は違ったが、今は影すら見えない。
王宮で建国記念のパーティがあっても、出席はしなかったそうだ。ラシェルはその頃王宮にはいなかったので、クリストフから聞いたわけだが。
そのため、公爵像はまったくわからない。クリストフの一つか二つ年上だったはずなので、年齢で言えば若いのだが、婚約話の一つもなかった。後継者はおらず、妹は外国に嫁いでいるため、たった一人で公爵領を担っている。
公爵領に隣接した国へ逃げるのに、田舎だから通り抜けがしやすかろうと公爵領を選んだが、それは認識違いだったようだ。
王妃が絡んでいれば、納得の噂というところだろう。
王が死ねば、公爵領に何をするだろうか。今でさえおかしな噂が流れているのだから、公爵家の人間が王妃を警戒するのは当然だ。
「それにしても、これおいしいわあ」
甘い焼き菓子が心を緩やかにしてくれる。広場のベンチに座って、もしゃもしゃ食べながら人の流れを眺めた。
都の街の賑やかさが懐かしく感じる。こちらは思ったより人が多いが、都独特の雑踏はない。穏やかな雰囲気で歩いている人が多いので、平和なのだろう。間違っても小道にごろつきが座り込んでいたりしない。
「いい街なのね」
王妃に睨まれている割に、整備はしっかりしている。隣国との貿易があるため、王妃から弾かれても、問題ないのだろう。これは王妃が凄んでいる姿が目に浮かぶようだ。
のんびりと時間を過ごしていると、目端にうつった赤色のマントに、ラシェルはぎくりとした。咄嗟にそれを背にして、少し離れる。
外でビールを飲んでいる男たちもそれらに気付き、なにがあるのか怪訝な顔で見遣った。
派手な色のマントを羽織っているのだから、集団でいれば嫌でも目に入る。道を通る者たちも、怪訝な顔でマントの男たちを横目にした。
「最近見る、あの騎士たちはなんなんだ? 宿に泊まっているらしいが。食堂も貸し切りみたいになっていてよ」
「死体を探してるんだろ。ほら、橋で馬車が川に落ちたって」
「あの日の嵐じゃ、海まで流れてるだろ。川に残ってるとは思えないし、海を探すのは無理があるだろう」
「王子の婚約者候補だったらしいぜ。悪事を働いたとかなんとか。護送の途中だったらしい」
「それなのに探してるのか? 更迭された子爵令嬢なんてよ」
公爵領でも噂になっているのは知っていたが、街の者たちまで知っている。王妃の命令で、ここまでその噂が流れてきたのだろうか。王妃は随分と努力しているようだ。
赤色のマントを羽織った騎士たちは、男たちの声に気付き、ちらりとそちらに視線を送る。
あの視線に留まるわけにはいかない。ラシェルはフードを被り、脇道にそれる。赤色のマントの騎士の中に、知っている顔が見えたからだ。
クリストフの側近、アーロン。王妃の手は早々に引き上げたと思っていたが、アーロンが来たとなると、あの騎士の集まりの中に、王妃の手が混ざっていることだろう。うっかり子爵令嬢のなにかが見つかって、面倒にならないように、監視しているに違いない。
一瞬目が合ったかもしれない。アーロンが人を追うかのように走り出して、周囲を見回した。
こんなところで見つかるなんて、お断りだ。
ラシェルは人混みに紛れて、小走りになる。気付かれたか、アーロンがこちらに向かってきた。
勘が良すぎだろう。普段はぼうっとしているくせに。
クリストフと同じで、少々抜けたところのある男だが、さすがに王子の騎士として選ばれるだけあるか。
小走りで逃げようとすると、途端、腕を引かれた。




