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2.

 殺し屋の記憶が飛んだ。

 まわりにきいたら、殺し屋はボノフの追悼演説で隣の部屋に住んだものとして死を悼み、集まった民衆を涙させたらしい。

 つまり、殺し屋は人畜無害なカタギ、イワン・イワノフになりきっていたのだ。

 偽名を使うのも考え物だが、自分は殺し屋ですと正直に吹聴することもできない。

 ただ、これでこの町は何かがおかしいことを確信した。

 その正体を暴いて、ペナルティを与えれば、殺し屋もいい仕事をしたと依頼人に胸を張れる。

「記憶が飛んだんじゃないかね?」

「え? いえ、飛んでませんよ」

「そう構えなくてもいいよ。わたしも飛んだことがある」

 技師はウィスキーを注いだ。

「わたしはこの町の創設期から住んでいる。ただ、そのときのことが記憶から抜けているんだ。まるでセリフが飛んだ俳優みたいに」

 記憶の飛んだ殺し屋は気づいたとき、技師の家の中庭にいた。

 殺し屋はボノフの追悼集会に出た。今回の襲撃の唯一の死者だったので、町を挙げての葬式だった。彼が別の町で俳優として成功しても、ここまで大きな追悼はなされないだろう――ということを殺し屋は技師と話しながら、そのまま家についてきたらしい。

「なんだか気持ちが悪いですね」

「気持ちが悪いと思えているなら、まだ大丈夫だよ。この町の住民はそんなふうに記憶が一部欠けることをセリフを忘れたくらいにしかとらなくなっている」

「あなたは違うんですか?」

「違う。わたしは異常だと思っている。それというのも――」

 技師はベージュの上着を脱ぎ、椅子の背にかけ、左袖をめくった。

 そこには入れ墨でこう綴ってあった。

 ――お前には責任がある。

「ひどい字だろう? 何かを忘れる前にわたしが自分で彫ったんだ。わたしはこの町を創るとき、何かをした。この文字を見ると、住人の健忘症や、それに――ボノフくんの死に責任がある気がしてくる」

「どうせなら、もっとはっきりこたえを彫ってくれればよかったですね」

 技師はまくった袖を直しながら、笑って言った。

「そんなことをしたら、わたしは自分で自分の腕を切り落としていただろうね。 ()()()()()()()()()。」

「どのあれですか?」

「分からない。どこにいるのか、何をしたいのか、そもそも本当に存在しているのか。この入れ墨を入れるとき、わたしは全てを分かっていた。このくらいぼやけた表現でしか、メッセージを残せないことが分かっていた。何かがあったのだ。この町を創ったときに」

「……そういえば、チモーフィエヴィチさんもこの町を創ったときにいたそうですね」

「ああ、そうだね」

「彼はどんな役割を?」

「もちろん分からない。ただ、彼は演劇が嫌いだ。それは、何かを知っていて、それから身を置こうとしている防衛の思考じゃないかな。ただ、それを知る方法がない。この町が本当にただ演劇が盛んなだけの町ならいいのに、起きている出来事を見ると、何か裏があるんじゃないかと思わされる。そして、そう考える人間が少しずつ減っていく。いまでは片手で数えるに足りるほどだよ。よそものはみんな演劇に関係する人間だ。きみのような旅人は非常に珍しい」

「……ぼくに、まさか、何か期待しています?」

 技師は首をふった。

「何も。ただ、手遅れになる前に出ていったほうがいい。そう忠告できるだけだよ」

 殺し屋は立ち上がり、ライラックのそばへ寄ってみた。

 そのあたりから中央劇場の円屋根が見えた。

「あの劇場はこの町が創られたときからあったそうですね」

「そのはずだ。ただ、誰があの劇場をつくったのか、それは誰も知らない。わたしにも分からない」

()()があそこにあると思ったことは?」

「何度も思ったよ。何度も通ったし、技師でしか入れない機械類の部屋、あちこちを見た。だが、何もない。見ることのできる場所は全部見た。だが、見つからないからこそ、あそこにあるとより確信できるんだよ」

「そうですか」


 殺し屋はプログラムをもらって、次の演劇を見た。題名は『カッコウ』。都会ですり切れる人間たちの悲哀を描いた、いわゆる現代派の演劇だった。

 劇場は桟敷席が三階まであって、この町の住人全てを一度に収容できるほどに大きかった。

 音響や照明は最高のものをそろえ、オペラのときにはオーケストラがフルで入ることができる。

 廊下にはビュッフェもあるし、中学生たちがこっそり煙草を吸うのにおあつらえ向きの人気のない階段もある。

「なんだよ、チビ」

 そう言われて、殺し屋はこの三人の中学生をナイフで屠って、その後、死体が見つかるまでの短いあいだに、この町の秘密を暴くことができるかどうかを考え、無理だなとあきらめた。

「ちょっとごめんね」

 そう言って、階段を塞いでいる中学生のあいだに足を踏み込んだ。

「おい、てめえ! なにしやが――ぎゃ!」

 肩をつかまれた。殺すこともできたが、安全ピンを手の甲に刺すだけで勘弁した。

「さてと」

 地下室の扉を開けると、電灯のある廊下に出た。きれいな壁紙とカーペット。作業用のあつらえではなく、上の劇場風と同じ高価なあつらえだった。

 廊下は左と右と前に伸びていて、かすかに風がめぐっている。廊下は回廊になっているようだ。

 左へ進み、高級材の扉にはまった真鍮のプレートには『発電室』『ポンプ室』とある。どれも技師であれば見ることのできそうな部屋だ。扉に耳をつけると、機械の駆動音がお腹に響いてくる。

『機械室』『便所』『衣装倉庫』

 歩き続けると、最初の地点に戻った。

 次に階段に対して、真っ直ぐの廊下を歩く。左右に扉があり、全てが劇場舞台の下に通じていた。ドアを開けてみたら、フットライトなどの配置図が電球付きでかけてあり、いくつかの歯車が劇の仕掛けを動かすべくまわっている。この地下はホールを支えるべく柱が何十本と立っている。

 そろそろと歩いていると、何か機械が見えた。

 他の歯車機械と違って、その機械は動いていない。近くまで寄ってみると、スチームパイプがつながった蒸気機関だった。パイプは閉じられていて、バルブがない。機械そのものは真鍮の機械塔をいくつも組み合わせたもので大昔の計算機に似ている。石灰光のガラス管やかみ合わないレバーなど無駄なものもくっついている。

「ん?」

 気配がした。

 その場を離れ、柱に隠れると、警備隊の服を着た男がふたり、機械のそばに寄ってきた。

(あ、これ、ぼくのこと、探してる?)

 何度か冷や冷やしながら、舞台下から逃げる。

 階段に中学生たちはいなかった。

 ビュッフェでクラッカーとサーモンを取り、ソーダ水を飲んでいると、先ほどの警備隊員ふたりが角に姿を見せた。

 ああ、気づかれたか。しかも、殺す気だ。目で分かる。

(でも、殺してでも見せたくないものがあるってことだ)

 スモークサーモンを口に詰め込んで、劇場を出る。

 人気のない路地へ誘導して殺せばいい、と殺し屋のなかの悪魔が言う。

 警備隊員がふたりも死体で見つかったら、大騒ぎになって、余計動きにくくなりますよ、と殺し屋のなかの天使が言う。

 じゃあ、道端に落ちているソーセージ製造マシンに突き落せばいい、と悪魔。

 それです、それならまさかそのソーセージが警備隊員とは思わないでしょう、と天使。

「悪魔も天使も馬鹿ばっかだ」

 路地へ行くしかない。でも、どうってことはない。もし、警備隊員殺しが見つかれば、電柱にぶらさがって、汽車客の見世物になるだけじゃないか。

「イワノフじゃない!」

 警備隊員がもたらすトラブルは警備隊員が解決した。

 アンナ・カジッチがやってきて、殺し屋の肩を親し気に叩いた。

「ん? そこにいるのはセミョーンとヴャチェスラフ? こんなところで何をしているの? 劇場の警備だと思っていたけど」

 ふたりはもごもご口のなかで言葉を転がし、バツが悪そうに帰っていった。

「助かったよ」

「カールから、ああ、カールはあの技師のことよ。あなたが劇場に行くとカールからきいて、何か嫌な予感がしたのよ。あいつら、ちょっと危ないから。手をあげて投降してきた盗賊を殺したのは一度二度じゃないし、なんていうか、生粋の殺し屋みたいな目をしてるでしょ?」

「ああ、そうだね。危ない目だね」

 前にある悪女ファム・ファタールを殺すために彼女と親しくなったことがあるが、彼女は殺し屋の眼を見て、宝石みたいと言った。

 ホテルの前で別れたが、アンナは、

「この町についてはわたしも興味がある。何か必要なら言って」


 ホテルの部屋で、この町の警備隊がどれだけ信じられる存在か考えていると、夕食まで二時間あるところで誰かにノックされた。

 目つきの悪い警備隊員セミョーンとヴャチェスラフがショットガンを撃ちながら入ってくるかなと思い、扉を開けると、恰幅のいい、胸に勲章をふたつ飾った紳士が立っていた。

「どうも」

「どうも」

「わたしはこの町の市長です」

「わざわざ、どうも」

「何かお困りではありませんか?」

「いいえ」

「本当にお困りではありませんか?」

「本当に困っていません」

「そうですか」

「そうです」

「では」

 市長が帰り、ドアが閉まった。

 殺し屋がベッドに横になると、またノックがきこえ、ドアを開けると市長が立っていた。

「どうも」

「どうも」

「こんなことをきくのは、わたしはこの町をたずねる旅人全員によい印象を与えたいと思っているからですが、――何かお困りではありませんか?」

「こうしてあなたがしつこく『お困りではありませんか?』と言ってくることが一番困ってます、と心無い人なら言うんでしょうけど、ぼくは言いません」

「それはよかった。で、何かお困りではありませんか?」

「お困りではありません」

「そうですか」

「そうです」

「では」

 すぐまたノックがあると思って、ドアの前に立ったまま、数えた。

 ところが三百数えても、ノックはない。

 やれやれ、やっと帰ったと思い、ベッドに横になると、ノックがきこえてきた。

「どうも」

「どうも」

「何かお困りではありませんか?」

「困っていません」

「本当に?」

「本当にです」

「でも、何か小さな困りごとがあるかもしれませんよ」

「どんな小さな困りごともありません。あなたたちの町は最高です」

「そうですか?」

「そうです」

「では」

 殺し屋はドアを閉めなかった。閉めるからノックされる。

 ベッドに横になり、銃を手入れしようかなと思ったが、ドアが開いたまま、興味本位で覗かれるのは嫌だなと思い、危ない警備隊員ふたりに睨まれているけど、ドアを開けっぱなしにして不用心に寝る贅沢を我が身に許そうと思ったそのとき、中庭側の窓のカーテンがふわりと風でふくらみ、その風はドアを閉めた。

 ドアが閉まったと同時にノック。

 ドアを開ける。市長がいた。

「どうも」

「どうも」

「何かお困り――」

「電柱にぶら下がった死体を見たいのに案内してくれる人がないので困っています」

 午後四時の、気持ちよい晴れの草原街道を市長の青いロードスターで走る。風が髪をなぶった。

 市長は結構なスピードを出していた。死体を吊るした電信柱が次々とあらわれては後ろへ逃げていくのだが、なかなか尽きようとはしない。

「こうした晒し行為はわたしどもの町には似合わない、実に非文明的ですが、仕方がないのです。町の法律でして」

「この町の人はみな町ができたころのことに忠実ですね」

「それが繁栄の秘訣です」

「市長さんも創設時の住人ですか?」

「わたし? いえ、違います。よその町で生まれ、そこで副市長をやっていました。わたしは一度でいいから市長をしてみたかったのですが、何度やっても選挙に勝てませんでした。そうしたら、この町が市長を募集しているとききましてね。それでこの町にやってくると、町の代表者が三人、わたしに面談したのです。その面談というのが、あのときにはひどく不思議なものに思えましてね。いまはもう亡くなったロスチェーノフ氏、技師のカール・ルツスキー氏、それで、そう、三人目はあのチモーフィエヴィチさん。三人がわたしにきくんですよ。演劇は好きか?と。それに『はい』とこたえて、それで決まり。わたしが市長です。ここは世界で唯一の選挙なしで市長になれる町です。ただ、それから数年後には何だか、選挙なしで市長なったことがひどく悪いことのように思えましてね。だって、そうでしょう? 選挙というのは必要だから存在するわけです。その選挙をですね、わたしだけやらないでいるというのは、何というか、いきなり顔を張り倒されても文句は言えない悪いことのように思えてきたのです。今は亡きロスチェーノフ氏に相談したら、わたしは生真面目だと笑われましたが、でも、それでわたしの気が済むのならと、選挙をしてくれました。確実にわたしが勝てる対立候補まで用意をしてくれて。それで、いまのわたしは正真正銘の市長になったわけです」

「そうですか。それは立派ですね。あの、中央劇場と同じくらい」

「あれは我が町の誇りです。ちょっとした神話ですよ。まず最初に劇場があった。そして、そこに人が住みつき、町ができた。この町は演劇の町になる運命だったのです」

「こんな草原のど真ん中に劇場をつくるなんて、オーナーはずいぶん危険な投資をしたんですね」

「いえいえ」と、市長が笑う。「あの劇場は世界ができたその日から、あそこにあるのです」

 こいつ、本気か?という内心が出ないようコントロールした顔で市長を見た。

 市長は目を輝かせていた。

 電信柱にぶら下がった死骸たちを背景に、狂った神話が語られる。この車は世界で最も狂気の縁に近づいた車だ。

 汽笛。汽車が見えてきた。こっちに走ってくる。

 殺し屋が町を振り返ると、地平を埋める建物のなかで、中央劇場の円屋根がひときわ目立って、輝いている。

 そのきらめきは市長の眼のなかに見えた輝きと同じだった。

 ――()()()()()()()()()

 殺し屋がロードスターから飛び降りるのと、市長が線路へ急ハンドルを切るのはほぼ同時だった。

 全身激しい痛みを覚えながら転がる殺し屋が見たのは、機関車に激突し歪に変形したまま引きずられるロードスターとひしゃげた市長の、目の輝きだった。


 全身、麺棒で殴られたみたいな痛みで身を引きずるようにしながら、殺し屋は真夜中に町に戻った。

 ハコヤナギの並木。無人の歩道。夜にかかるいかがわしい劇はもっと狭い道で上演されるようだ。ホテルの部屋に戻ると、弾を込めた二丁のリヴォルヴァーをもって、浴室に入って、シャワーを浴び、トランクを開けると新しいハイネックの黒いセーターに着替えて、一緒に取り出したショルダーホルスターをつけた。

 財布を取り出すと、ナイトテーブルにホテルの宿泊料金を置き、無人のカウンターを通り過ぎて、外に出た。

 涙色のクーペには幸い、何も細工はされていなかった。

 というより、これから細工するつもりだったらしい。

 というのも、例の危険な警備隊員のひとり、セミョーンがバールとアイスピックを手にクーペに歩いてくるところだった。

 ライトをつけ、アクセルを踏み込むと、セミョーンは慌てて逃げ出した。

 ライトはバタつく制服の裾をとらえ続け、ついにセミョーンが空き缶につまずいて、クーペに轢き潰された。

 大通りでハンドルを大きく切って、砂利をまき散らし、技師の家を目指した。

 技師宅の門から警備隊員の片割れで発音が難しいヴャチェスラフが出てきた。ライトに照らされた彼の手は血塗れで軍用ナイフを握っている。

 ナイフを落として、咄嗟に制式リヴォルヴァーを抜こうとしたが、不格好に体をよじったまま、額を撃ち抜かれた。

 銃声に周囲の家の窓の明かりがついた。

 銃をホルスターにしまうと、Uターンして、大通りへと戻る。

 そして、あの中央劇場のロータリーをまわって、西へ通じる通りで曲がると、そのまま、アクセルペダルを踏みっぱなしにした。建物が途切れてきて、最後に町外れの公共墓地がバックミラーの小さな影になるまで走り続け、そこから徐々にスピードを落とした。その後は緩やかに北への道を選び、誰もいない草原の真ん中で、ぐうー、と腹の虫が鳴いた。

 車を止めて、夜の星が湧きたつ東西南北の地平を眺めて、追手がいないことを確認すると、殺し屋はトランクを開けて、ハリケーンランタンをつけ、道の脇に置いた。



 まず、小さなキャンプ用アルコールコンロを点火し、フライパンをのせた。これを殺し屋に売りつけた店員は一度火をつければ世界の終わるその日まで燃え続けると言ったが、罪のないセールストークと思い、眉に唾を付けてきいておいた。

 オリーブオイルを少しフライパンに垂らし、旅行用食料箱を開ける。

 コンビーフの缶詰。チーズがふた包み。白ワイン一本。塩。コショウ。チリペッパーの粉末瓶。古くなったパン。

 コンビーフの缶をふたつ開けて、フライパンに中身をあけた。

 射撃監視スポットに似た台形のコンビーフをスプーンで切り崩し、コンビーフがまんべんなく油の上でパチパチ音を立てるように炒め、焦げ目をつける。

 コンビーフの見た目がばらけて汚れた古い繊維みたいになったところで、フライパンを少し持ち上げて火から遠ざけ、チーズをふた包み、遠慮なく投下。

 チーズを焦がさずにとろけさせ、ある程度とろけたところで白ワインを加え、チリペッパーを目分量でドバっと、そして、古くなって少々固いパンをひと口大に刻んで、フライパンに入れた(もちろんこのとき使ったナイフは人の身を通したことのない純粋な調理用ナイフだ。同業者のなかには人の喉を切り裂いたナイフでハムを切るのが偉いか何かと勘違いしているものがいるが、そういう話をきくたびに、こいつ正気か?と殺し屋は思う。仕事とプライベートはしっかり分けるべきだ)。

 このときになると、コンビーフもパンも赤く色づいたチリ・チーズのなかに沈んでいく。

 これで『怠け者のチーズフォンデュ』の出来上がりである。

 いちいち具材をチーズに浸さず、最初から全部フライパンにぶち込む。

 そもそも土鍋を使わずフライパンで代用している時点でこの料理の存在をチーズフォンデュ原理主義者たちは許してくれないだろう。

 しかし、ボロボロに崩れたコンビーフが大量のチーズをからめ取り、それを口に運ぶと、コンビーフの塩っぽいのと、チーズの濃厚マイルドなのと、チリペッパーの激辛なのが口のなかでぶつかって、ワケの分からない味になる。

 コンビーフ、チーズ、チリペッパーのうち、どの味が主張されるかはスプーンですくい取って食べてみるまで分からない。

 チーズ好きの究極旅行メシを食べながら、町のあるほうを睨む。

 演劇だか洗脳だか知らないが、少なくとも殺し屋の手元にはなんちゃってチーズフォンデュが確かに存在している。

 それだけで殺し屋の勝ちなのだ。

 ……もちろん、新鮮な海老があれば、さらに大勝利なのだが。




 夜が明けてから、チモーフィエヴィチの屋敷に向かうと、灌木が乱暴に折り倒され、窓がいくつか吹き飛んでいた。芝生をはぎ取った乱暴のタイヤ痕の先には警備隊のパトロール・カーが止まっている。

 エンジンは切ってあって、鍵は刺さったまま。後部座席にショットガンがあったので、失敬した。

 夫妻は母屋から東へ伸びるL字型の建物の角で見つけた。ふたりとも後ろ手に縛られ、頭を後ろから撃ち抜かれている。手を見ると、指が全て折られていた。

 ――()()()()()()()()()

 銃を構え、めちゃくちゃに増築された家に立ち入る。

 なかは荒らされていない。チモーフィエヴィチは金庫か何かの場所と番号を吐いたのだろう。

 血のついた足跡は寄り道もせず、夫妻の寝室まで続いていた。

 盗賊らしいふたりと警備隊長の死骸があった(この手の組み合わせに、もう殺し屋は驚かなかった)。どれも仰向けに倒れて、手足を投げ出し、顔にはネズミに食い荒らされたチーズのような穴が開いていて、焦げてむかつくにおいを放っていた。

 夫妻のベッドの上に扉が歪んだ金庫が開けっ放しになっている。

 おっかなびっくり調べてみると、ショットガン用の焼夷弾が四つ、金庫の天井にボルトで止めてあった。たとえ暗証番号を知っていたとしても、特別な手順を取らずに金庫を開ければ、火のついた爆薬が顔に飛び込む仕掛けになっているわけだ。実弾四つのうち、三つが爆発済みで、ひとつ、不発の焼夷弾が残っていた。

 ポケットから十徳ナイフを取り出すと、ボルトからその弾を外して、ジャケットの内ポケットに入れた。

 チモーフィエヴィチがそこまでして保管していたものは金貨でなく、札束でなく、宝石でなく、有価証券でなく、敵対ギャングの小指のホルマリン漬けでなく、真鍮のバルブだった。

 それに一枚の写真。

 セピア色の写真の中央には二メートルくらいの高さがある天使のブロンズ像があり、その左右に白衣を着た科学者らしい男女が並んでいる。そのうちふたりはチモーフィエヴィチ夫妻。一人だけ白衣ではなく、フロックコートを着ている男がいるが、これは技師だった。

 写真の右下には『創設を記念して』と綴ってある。

 これが町の始まりであり、住人の健忘症や役にのめり込む原因の正体だ。

 ――()()()()()()()()()

 技師は腕に箴言を刻み込んだ。

 チモーフィエヴィチはのめり込みを利用して、劇嫌いの老人の役を演じることで距離を置こうとした。

 写真を金庫に戻し、バルブだけ持っていき、涙色のクーペは東へ道を取り、町へと戻る。

 クスっと笑う。

「誰を殺せばいいかわかった」



 中央劇場は銃を持った男女に守られていて、地下の舞台下、用途不明の蒸気機関まで行くのに八人をショットガンで細切れにしなければならなかった。

 そのうちひとりはアンナ・カジッチで正気を失って狂ったカジッチは銃の弾を切らすと、再装填するかわりに両手を前に突き出して、殺し屋を目がけて走ってきた。

 殺し屋は胸に一発撃ち込み、それでもまだ走ってきたので頭を吹き飛ばした。

 ――()()()()()()()()()

 それに本能もある。

 あの銅像は創造されて以来、最も厄介な敵が来たと知っているのだ。

「照れるね。もう」

 蒸気機関のパイプにある突起にバルブをはめ込む。ぴったりと合致し、バルブを開けると歯車が全てカチカチカチカチ鳴りながらまわり出し、蒸気機関が床ごと持ち上がって、さらに地下へと通じる階段があらわれる。

 螺旋階段。壁は永久堡塁用の頑丈なコンクリートがむき出し。裸電球がぶら下がっているので、闇のなかで蹴つまずいて最下層まで転がり落ちる心配はない。

 階段の壁が消え、奥に引っ込み、小さな踊り場があらわれる。

 木でできたテーブルと椅子。それに蓄音機がひとつ。レコードが一枚。

 クランクをまわして、レコードを再生してみる。しゃがれた声がきこえてきた。

 ――創設二年、十月二日、晴れ。

 ――記録者:パーヴェル・アントーノヴィチ・ロスチェーノフ。

 ――装置は予想以上の効力を発揮している。それは意識への干渉と呼んでもいい。我々は装置の上に劇場をつくり、演劇への支援を謳って、おそらくもっとも意識の干渉に弱い人間、つまり俳優たちを集めている。装置は役者たちが激しく意識している役にのめり込む手伝いをしている。いまのところ、その役としての意識と生来の性格としての意識の切り替えは本人たちの意思で行えている。

 しばらく降りるとまた同じ踊り場がある。テーブルと椅子。蓄音機とレコードがあらわれる。

 ――創設二年、十二月二日、雪のち曇り。

 ――記録者:アレクサンドル・イリイチ・チモーフィエヴィチ。

 ――意識の切り替えを本人の意思でできることの是非で意見が割れている。我々の目的は人間の意識を自由に書き換えることにより、哀しみ、抑うつ、暴力衝動といった負の感情を根絶やしにすることにある。これら負の感情が消滅すれば、人類はどこまでも進歩できる。正と負の感情の切り替えを各自で行えるようにすることに意味があるだろうか? ルツスキー技師は技術的な問題でいずれ意識の切り替えはできなくなると言っている。究極の進歩まであと少しだ。

 降りる。踊り場。テーブルと椅子。蓄音機とレコード。

 ――創設三年、三月十日、晴れのち曇り。

 ――記録者:カール・ペトロヴィチ・ルツスキー。

 ――また役者が自殺した。役にのめり込んで情緒が不安定になった結果だ。言うまでもないが、それは装置がもたらしたものだ。誰も意識に対する塗りつぶしに対応できない。わたしだって、いつまでもつか。最近、この町に来て、劇場をつくった記憶が曖昧になっている。もはや進歩どころの話ではない。装置は自己を確立している。いくつもの意識を書き換えながら、装置はそのときに知った意識を学び取り、自らの意識を獲得したのだ。チモーフィエヴィチは町を離れた。それが賢い選択だ。恐ろしい殺人者の役を演じる俳優が本当に人を殺すのは時間の問題だ。ロスチェーノフは何とか事態をコントロールしようとしている。主任研究者である自分には責任があると言うのだ。責任、か。この身に刻むべき言葉だ。この危機感を書き換えられる前に。

 降りる。踊り場。テーブルと椅子。蓄音機とレコード。

 殺し屋の革靴が何かにもろいものを踏み抜き、バランスを崩して、思い切り転ぶ。

「痛い! バカ! チクショー!」

 ――創設三年、十一月二十日、晴れ。

 ――記録者:パーヴェル・アントーノヴィチ・ロスチェーノフ。

 ――我々が彼女を作ったのは全人類の幸福を願ってのことだ。こんなふうに心を彼女の支配に委ねるためではない。我々は人類を救済する確実な方法を見つけたと思っていたが、それは思い上がりだった。彼女は意識を支配し、政策をいじり、演劇を支援する法律をいくつも通した。この呪われた土地に演劇の町を作り上げた。彼女の支配に屈服しやすい人間を効率的に集めるために。それは拡大し続ける。彼女のしようとしていることを止める義務がわたしにはあるが、どうしたらよいのか分からない。分からないんだ。すまない。本当にすまない。

 ――バン!

 ――……………………。

 骸骨が握っていたのは三十ヶ国の軍で制式採用されている三十二口径の自動拳銃。殺し屋がうっかり踏みつけなければ、頭蓋に残った弾痕が見れたことだろう。

 階段が最後の扉に行きついた。

 彼女、あるいは装置の安置された部屋はプラネタリウムに似ていた。

 違うのは彼女から発せられた光が細い触手となって、丸天井の一点に吸い込まれていることだろう。

 ああ、あれが頭のなかを書き換えるのか、と思いつつ、前へと歩くと、光の触手が破滅的な流星群となって殺し屋の頭に降り注ぐ。

 左へステップしてかわし、弾倉に残った二発のダブル・オー・バックを天使の翼へ撃ち込んだ。

 青銅にヒビが入り、あらわれたのは殺し屋の昨晩のキャンプ飯――炒めてほぐしたコンビーフのような毒々しい赤の尖った繊維。その繊維が先端を槍のように尖らせて、殺し屋に襲いかかる。

 光の触手とコンビーフの槍を間一髪で避け続ける。

 ああ、殺し屋というのはこの世で一番ハードな仕事だな、でも、命からがらちょこまか逃げるのは我慢できるけど、昨日食べたものを連想させる攻撃方法を取られるのはひどすぎる、これからコンビーフを食べるたびにこのことを思い出すのではないか、そうなったら、誰が責任をとってくれるのだ? と、思いながら、身をよじってムーンサルトをきめつつ、空のショットガンの槓桿を引き、ポケットに残っていた最後の弾――金庫の焼夷弾を薬室に滑り込ませ、ほとんどゼロ距離の真上から天使の頭を焼き尽くした。



 紙屑が無人の大通りを舞う。

 店は鎧戸を閉ざしたまま、ハコヤナギの葉擦れだけがきこえた。

 殺し屋の涙色のクーペは東へと向かっている。

 邸宅街。劇場。服飾専門店。

 どれも誰も見えない。

 公共墓地。屠所。煉瓦工場。

 誰もいない。

 殺し屋は考えた。

 人の頭を書き換える見えない手が脳に突っ込まれ、それを突如強引に引き抜いたら、どうなるのか?

「そりゃ、ろくなことにならない」

 町を出て、最初に出会った人物が言った。

 彼は小さな畑を持っていて、牛を二頭飼っていた。赤く焼けた顔に白い髭、細い眼がさらに細められていて、いつもしかめているように見えるが、本人は別に不機嫌でも怪訝でもなんでもない。

「だから、新聞なんて読むもんじゃねえんだ。あんなに意見をズケズケ書いて、それを読めなんてよ、他人様の頭に手を突っ込んで搔きまわすようなもんだからな。おまけに何が書いてあるとしても、それを信じないわけにはいかねえ。だって、銭を出して買ってるわけだから、そこに書いてあることを信じなかったら、銭が無駄になる。何が何でも、そこに書いてあることにうなづかなきゃいけねえ」

「でも、これは新聞じゃなくて演劇の話なんだ」

「演劇なんて、もっとタチが悪い。音と歌がついてくるからな。劇だって銭を払う。そうなったら、劇が何をほざこうと信じねえといけねえ。でねえと、銭が無駄になるでな。この世に救いがねえ理由が分かるか? 嘘はよくねえ、こいたら魂を食われるぞ、って教えてもらってねえ人間が多すぎる。まったく罪深つみぶけえよ。この世はな」

「そうだね。じゃあ、ぼくは、そろそろ行くよ」

「まあ、待てよ。この世は罪まみれだけどよ、ひとつだけ確かなことがある。そいつぁ、なんだか、分かるか?」

「禁酒集会?」

「映画だよ! ここから南に二十マイル行ったところに映画のことなら何でもあるって町がある。そこに行けば、いろんなもんが見られる。わしも見たことがある。あれぞ、文化ってやつよ。しかもよ、みんなタダで見られるから気に入らなきゃ信じなくてもいいんだ。銭が無駄にならん。すげえだろ。お前さんも言ってみるべきだぜ」

「あいにく、いまのぼくは文化から遠ざかりたくてしょうがないんだ。洞窟に暮らして、生肉を食いちぎって、月に向かって雄たけびあげてね」

「おい、おめえ。こいつは見ねえと罪深つみぶけ――」

 アクセルを踏み込み、農夫に砂埃を目いっぱいひっかけると、殺し屋はハンドルを切り、逃れるように北へと曲がっていった。

 後に残された農夫は飛び上がって叫んでいる。

罪深つみぶけえ!」

 殺し屋は快活に笑った。

「そうそう! その通りだよ!」


End

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