1.
線路とともに電信柱が続いていて、その一本一本に人が吊るされていた。
腐敗の度合いは様々だった。一メートル近く伸びた首が紫色の斑紋に覆い尽くされたものもあれば、手足が固まっただけで腐敗はまだ進んでおらず絞首時の苦渋の表情が分かるもの、ひどいにおいをさせたぼろきれがぶらさがっているだけのもの。脱色された白骨死体がぶらさがっているようなロマンチックなものはなかった。
線路沿いの薄茶の土の道を涙色のクーペが走っていて、電信柱の絞首刑は尽きることなく続いていた。
「こりゃ、よっぽど厳重な法律が施行してるんだろうな」
ショートヘアの少女、もしくは長髪の少年に見える殺し屋はこれからかなりハードな土地に入るのかと思い、ため息をついた。
馬のかわりに自動車を使う盗賊団や旅行者のことを自分たちのもとに金を運んでくる家畜くらいにしか思っていない殺人宿屋の主、首吊り判事のふたつ名を手に入れた裁判官たちを相手にショットガン一丁でわたっていかなければならないとはしんどいことなのだ。
線路は緩やかに北へと曲がり、電信柱もそれに続き、首吊り死体は視界に入らなくなった。
あぜ道が次第に整備されていく。
固められた土の道。石畳の歩道。そして、ハコヤナギの並木があらわれるころには、道は町の目抜き通りになっていた。
それは人口が三万人くらいの、草原に囲まれた田舎町だった。
道に面して商店や屋敷、紫と黄色の花が咲く庭園があり、それに劇場があちこちで目立った看板を立てていた。
竜を倒す勇者。恐ろしい顔の富豪と清らかな娘。苦悩する聖職者。その劇を示すのに最も効果的なシーンが絵に採用されているようだった。
目抜き通りは青い円屋根の巨大な建物まで続いていた。この建物は町の中心であり、そこから目抜き通りが六本伸びていた。
石像の柱に支えられた回廊や金箔を塗った天使を頂く円屋根など、まるで宮殿のようで、こんな田舎の地方都市には不釣り合いだったが、一番人でにぎわっている。老若男女、貧富を問わない。
もうひとつ目立っているのは長距離バスだった。
建物のまわりにはバス停がいくつもあり、どのバスからも大荷物の旅人が降りてきて、それをシルクハットをかぶって、胸に勲章をふたつつけた、この町の代表者らしき初老の男が笑顔で迎え、お互いを長年の親友みたいに抱き合っている。
あとで殺し屋はこの建物が町で一番大きな劇場であると何十人という人間から教えられることになる。
ざっと車で流した感じでは、ピストル強盗も殺戮宿屋も首吊り判事もいない。
酒は怪しげな売春宿ではなく、昔ながらの旅籠で出し、老人がポーチでハイプを吹かし、新聞社のニュース・ボーイたちが家に帰るのを暴力や暴力的な法律が妨害しようともしない。
治安はとびきり良いようだ。
目抜き通りから一本横に曲がったところにある〈ニンジン亭〉という宿屋に部屋を取った。
食事つきで宿代は安く、店主は三十代の若夫婦で客を殺して身ぐるみ剥いでやろうという邪な殺気も感じられない。
宿屋には中庭がある。カウンターから見ると、緑樹の下にテーブルがいくつかあり、気候のいい時期は食堂のかわりになるらしかった。そして、庭の隅には防水シートに覆われたかなりの量の資材が見える。
二階の、中庭側に窓がある部屋に案内された。窓はベランダになっていて、中庭を回廊のようにめぐっていた。宿泊客は廊下と同じように回廊もぶらつくことができた。
殺し屋はベランダに出て、中庭を見下ろしたが、緑樹と食堂、そして、資材の塊。一階から見た以上の情報は見られない。
そのとき、殺し屋の右隣りの客室の窓が開いて、上機嫌な宿泊客があらわれた。背が高い痩せた男で顎髭を生やしている。殺し屋に気づくと、会釈して、そこから旅にまつわる話を二、三してきた。
「僕はアンドレイ・ボノフと言います。よろしく」
殺し屋は偽名で名乗った。
「イワン・イワノフです」
「それは芸名ですか?」
「ん?」
「ああ、失礼しました。ここに来る旅の人はみな演劇関係者なんですよ」
「演劇? ぼくはそうじゃなくて、仕事で立ち寄ったんです」
「ああ。そうでしたか」
「その、演劇が盛んというのは?」
「町じゅうに劇場があって、住民は自分で劇に出るか、あるいはその愛好家なんですよ。俳優暮らしはどうしても根なし草になりがちですから、その町の住人から若干厳しい目を向けられますが、ここはむしろ温かく迎えてくれて、それどころか演じる機会を与えてくれる。同業者のあいだでは有名な町です」
「じゃあ、長距離バスが目立ったのはみんな役者が乗っていたわけですか」
「ええ。もちろん一座でまわっている人たちも大勢います。ここは劇に真剣に向き合う方は誰でも歓迎の町なんです。役者にとっては天国ですよ。環境がいいんでしょうね。セリフが頭に入りやすくて、役の気持ちになって、物を考えられるから、とても高い水準の演技ができる。――ああ、もちろん、演劇に関係ない人もこの町の人は優しく迎えてくれますし、市内の劇のほとんどは無料で見られます。案外、これを機に演劇にハマってしまうかもしれませんよ」
アハハ、とボノフは笑った。
殺し屋も、アハハと笑いながら、今回の依頼人とのやり取りを思い出した。
――強盗殺人なんて、あの子に限って!
男はそう叫んだ。
――そんなことができる子じゃない。あんなにやさしい子が。虫を間違って踏み殺したとき、あの子は一日じゅう落ち込んだ。そんなあの子が強盗殺人だなんて!
男はボロボロ涙をこぼした。
――真犯人がいるんだ! そいつがわしの息子に罪をなすりつけて死なせたんだ! そいつを見つけてほしい、この世のものとは思えない苦痛を与えて殺してほしい!
男は死んだ息子の写真をガラスが割れるほど強く抱いた。
――この世のものとは思えない苦痛は別料金になるけどいい?
「じゃあ、ひとつ劇を見てみようかな」
殺し屋が言うと、ボノフはそれがいい!と言って、彼の所属する劇団の招待券を渡した。
「初公演は一週間後です。ぜひとも来てください。約束ですよ」
そう言うと、ボノフはそろそろ集中したいから、と言って、部屋に戻り、台本を手にして、空いた手をひらひら動かしながら、役に没頭し始めた。
まだ夕食にははやいので、ひとつ、何か劇を見てみようと思い、宿屋を出ると、アヒルがとことこ歩く静かな小道を歩いて劇を探してみた。
建物の裏手で、白い板で区切られた庭が続いている。
その庭を目いっぱい使って立てられたテントがある。目についたのは立札にある『全力前進劇団 題目:「超越」 無料』の文字だった。
テントの幕を左右に除けて、入ってみると、舞台に向いて、ベンチがいくつかあり、物好きそうな男たちが座って、クスクス笑っている。
劇団員は舞台で弧を描いて座り、その中央には痩せたゴボウが置いてあった。
劇団員は男五人に女ふたり、みな上半身裸で特に女性はどちらも豊満な体をしていたから、ここにいる客はこれが目当てかと思った。
肝心の劇の内容だが、一番左端に座っている男がゆっくり立ち上がり、中央のゴボウを両手で捧げるように持ち上げて、
「おぉーれは始まった」
と、言うと、他のものたちは座ったまま、
「かぁーれは始まった」
と、言う。
そして、男はゴボウを客席に突き出して、よく見せた後、元の位置に戻して、自分も座る。
次は女性であり、同じようにゴボウを両手で捧げ持って、
「わぁーたしは始まった」
「かぁーのじょは始まった」
この繰り返しである。
全力前進劇団はどこに向かって、全力前進するのか分からなかったが、同じ方向には全力はもちろん匍匐前進だってしたくないなという気持ちになった。
見てると不安な劇だが、途中で帰ったら、どんな抽象的な攻撃をされるか恐ろしかったので、なんとか最後まで頑張った。
テントを出る。
見上げれば日が西へと傾き、流れる雲が薔薇色の影を帯びる時刻だった。
お腹が、ぐう、と鳴った。
翌日の午前十時、例の息子の強盗殺人事件について調べるため、殺し屋は警備隊兵舎へと向かった。
石造りの大きな平屋で中庭は訓練場になっていて、男女十人ほどの隊員たちが伏せた状態で二十メートル先の的を撃っていた。
殺し屋は劇のためにいくつか見てみたい事件があると受付の事務員に告げると、すぐ内線がつながって、警備隊の隊長の部屋へと案内された。
ファイル・キャビネットと町の地図があるだけの質素な部屋で、ガンベルトが壁に打った太い杭からぶら下がっていた。
隊長は細い眼のがっしりとした男で、拍車のあるブーツを履いているのか、握手する動作でちょっと足を前に動かしただけなのにガチャンガチャンと踵から金属音がした。
「見たい事件ファイルがあるとのことで。イワノフさん」
声がよいので、きっと隊長も何か演劇に関わっているのだろうと殺し屋は考えた。
隊長は殺し屋に椅子をすすめながらたずねた。
「どんな事件を?」
「えーと、参考にしたいのは強盗殺人です」
隊長はうなづき、電話の横の真鍮のボタンを押して、マイクに言った。
「ドリューエフくん、この三年間の強盗殺人事件のファイルを持ってきてくれ」
受付の事務員が六枚ほどの紙ばさみを持ってあらわれた。
「こんなにあるのか? 嘆かわしいことだ。どれも悲しい事件ですが、それが新たな演劇を生み出すなら、それ以上の供養はないですよ。ただ、規則で閲覧は警備隊の人間が同席しなければいけないので、それだけお願いします」
「はい。いえ、正直、こんなに簡単に事件記録が見せてもらえるとは思いませんでした。他の町なら、まず門前払いですから」
「我々は人間の善性を信じているのですよ。どんな道へ曲がっても、最後は善なるものに帰ってくる。劇の終わりはハッピーエンドに必ずたどり着くんですよ」
殺し屋は一通り目を通した後、依頼人の息子が関わった事件をさりげなく注目したわけだが、そんな小細工無しでも問題ないほど、惨く目立つ事件だった。
被疑者:ドミトリー・マクシーモフ
所 属:カール・ベツレ座
報告者:アンナ・カジッチ
概 要:19××年11月8日午後七時半ごろ、被疑者ドミトリー・マクシーモフ(29)はケッテンスキー通り三十二番地の下宿屋へ二連発猟銃一丁、サーベル二本を持って、侵入し、主人のカテリーナ・マヴリスカヤ(56)を銃撃後、サーベルで斬殺し、さらに食堂にいた下宿人で俳優ミハイル・カノフ(19)、同じく俳優ミハイル・アグラーエフ(34)、大道具係ピョートル・パレイーキン(27)を猟銃で殺害。その後、被害者所有の現金、150ルブを強奪したところ、警ら中の本官が猟銃を手に外へ出た被疑者の膝を撃ち、無力化、逮捕。
「このアンナ・カジッチさんに話をきいてみたいのですが」
「カジッチ隊員は現在、出張中でしてね。戻るのが三日後か四日後になります」
「そうですか。このカール・ベツレ座の人たちにも話をきいてみたいですね」
「彼らは先月、また出発しました。当分、こちらにはやってこないでしょう」
「興味深い事件なんですけどね。こんな穏やかな町で、こんな恐ろしい事件が起きるなんて」
「まったくです。――ああ、そうだ! マリア・チモーフィエヴナを忘れていた!」
なんだか、発音しにくい名前だなと思いつつ、
「どなたですか?」
「この町の外れのその先に鉄道があって、そのそばに小さな屋敷があります。草原にポツンとあるような家です。この家は、まあ、変わりものでしてね。マリア・チモーフィエヴナは演劇好きの集まるこの町の住人のなかでも、特に大の演劇好きでカール・ベツレ座には惚れこんでいました。彼女にきけば、何か分かるかもしれませんね」
「そうですか。でも、遠くにひとりで住んでいるだけで、そう変わりものというわけでもなさそうですが。何かあるんでしょうか?」
「ん? いえいえ。変わりものは彼女ではありません。彼女の夫のアレクサンドル・チモーフィエヴィチが変わりものなんです。彼はなんと、演劇が大嫌いなんですよ」
隊長はそれが飛び切り面白い冗談のように膝を打って笑った。
涙色のクーペに乗って、町から西へニ十キロほど走ると、なだらかな草原に鉄道の線が電信柱とともにあらわれて(今回は首吊り死体はなかった)、だんだん車道に近づいてきた。
さらに十分ほど走ったところ、鉄道のそばに形の崩れた植物の庭があらわれて、気づけば、車はチモーフィエヴィチ夫妻の地所に入っていた。
車道から家につながる砂利道へ曲がり、見えてきたのは庭以上に変な形の屋敷だった。
ポーチが外れて石の土台になり、それが納屋につながっている一方で、右には時計塔が生えていて、手前へサンルームらしいものが増築されているが、その東側には母屋から伸びたL字型の、用途不明の部屋がある。そのさらに右に作りかけの廊下があり、おがくずまみれの工具と真新しい白々した板が何枚か置いてあり、ずんぐりした老人が気難しい顔をしてサンドイッチに噛みついていた。
「あの、すいません。あなたはチモーフィエヴィチさん?」
老人は大きな灰色の眉毛を片方釣り上げて、殺し屋を見た。
「誰だ、お前」
「ぼくの名前はイワン・イワノフ。劇の脚本のためにある事件の話を集めています」
「ほう。お前もあの町に集まるごく潰しのひとりってわけか」
「ごく潰し?」
「お前、演劇の塩焼きを食べたことはあるか?」
「演劇の塩焼き?」
「あるかないかでこたえてくれ」
「ないです」
「じゃあ、演劇の靴下をはいたことはあるか?」
「ないです」
「演劇の軒で雨宿りしたことは?」
「ないです。これはどういう質問です?」
「そのままだ。演劇は食えないし、着れないし、住めない。ゼロだ。何の役にもたちゃあしない。世のなかには鉄をつくったり、新種の麦をつくったりする町があるのに、あの町はよりにもよって、演劇にはまりおったんだ。空虚で何も残らない」
「でも、なんていうか、人間生きていくうえで文化も大事ですよね?」
「文化の照り焼きを食べたことはあるか?」
「ないです。文化のジャケットを着たこともないし、文化の切り妻屋根で夜露をしのいだこともありません」
「文化ってのは食い物と着るものと住む場所をこさえる力を持ってから気にすべきことだ。家内に用があるんだろ? 劇に関わる人間がわしに用があるわけがないからな。マリア、マリア!」
時計塔の根元の窓から「なあに?」と返事がきた。
「劇のことで話をしたいってやつが来てるぞ」
マリアは居間にいた。ふくよかな老婦人で、いまは五冊の脚本を古ぼけたテーブルに乗せて、見比べていた。
「まあ、お客さんが来るなんて珍しい。劇のことでお話がしたい人は大歓迎よ。なにせ、主人がああでしょう? だから、俳優さんや監督さんは全然来てくれないの。こんなところは売ってしまって、市内に住もうって何度も言ってるんですけど、主人はあんなところにいると頭がおかしくなるって言うんですの」
「そうですか。ぼくは――」
「でも、そうは言っても、あの町ができた以来の古い住人なんですのよ。主人は。昔はあんなに劇が嫌いじゃなかったんですけど。特別好きってわけでもなくて、でも、まあ、別にあそこまで嫌ってもいなかったんですけど、いつの間にか、あんなに偏屈になってしまって」
「そうですか。それは大変ですね。それで――」
「このあたりは盗賊も出ますのよ。自動車に乗って銃を撃つ盗賊が。こんなところに住んでいたら、いつ襲われるか、わたしは怖くて怖くて! でも、主人は盗賊なんかより演劇のほうがずっと恐ろしいって。強情なんですの。でも、警備隊の方がパトロールしてくださるから、ここも最近では安全ですのよ。でも、盗賊に襲われるなんて、ちょっとロマンチックな気もしますわね。だって、若い、でも活発で宮廷暮らしを嫌うお姫さまは必ず海賊にさらわれて、それから船長と恋をするでしょう?」
「へえ、そうなんですか。それで、ぼくは――」
「マンネリだっていう人もいるそうですけど、わたしはそうは思いませんことよ。これは形式美ですよ。そう思わなくて」
「そう思います。それで――」
「盗賊さんたちも劇を見たら、心が豊かになれるのに。いくら財産を持っていても、心が豊かでなければ、それは財産を持った死骸ですわ。演劇はやっぱり――」
「カール・ベツレ座!」
殺し屋が大声を上げると、夫人はきょとんとした。
「まあ、あなた、カール・ベツレ座に興味があって?」
「はい、その座のひとりが犯した強盗殺人について、脚本の参考にしようと思いまして」
「マクシーモフさんのことね? あの方はすごく有望な俳優さんだったのに。あんなことをしてしまうなんて。マクシーモフさんもかなりのめり込むタイプですからね。まあ、無理もありません」
「も、って言いました?」
「はい。いいましたよ。これを言うと主人がそれ見たことかと言うのであまり大きな声では言えませんけど、ときどき俳優さん女優さんのなかには、その、役にのめり込んで、役と現実の境目が分からなくなる方がいるんです。悲しい出来事です。それで、その、これはあまり褒められたことじゃないのですけど、でも、絞首刑なんて、感じやすい役者さんたちには酷でしょう? ですから――」
「線路の横の電信柱ですか」
「教訓だって方もいらっしゃいますけど、わたしはどうかと思いますけどね。ただ、町ができたころからのルールなそうですので、仕方がありません」
「結構な数が吊るされているように思えましたが」
「みんながみんなマクシーモフさんのような方ではありませんのよ」
「マクシーモフさんですが、何か変わるとき、こう目立ったことがあったと、カール・ベツレ座の人からきいていませんでしょうか?」
「わたしはマクシーモフさんのお葬式のお手伝いをしましたけど、マクシーモフさんは『エチル博士とメチル氏』のエチル博士を演じていました。ああいう、その、凶暴な側面を持つ危険人物を演じるのは別に初めてではなくて、むしろマクシーモフさんは座きっての性格俳優さんで、確かにのめり込むけどスイッチの切り替えみたいに役と現実の切り替えもしっかりできることだと伺っています。同じ座の人たちもすっかり困ってました。こんなことは初めてだって。そうそう。あなたはあの電信柱のおそるべき所業を見たんですよね。もし、可能でしたら、よその町に行ったときにこのことを大々的に言いふらしてもらえませんか」
「町の恥部のように言っていましたけど、いいんですか?」
「わたしはむしろ言いふらしてもらえるほうがいいと思っているんです。だって、やっぱりあんなこと、すべきじゃないですもの。いくら教訓のためとはいえね。でも、わたしたちの町の最初の法律がそう言う以上、わたしたちだけでは変えられないのです」
「町のその、法律をつくった人というのは?」
「それが誰だか分かりませんのよ」
「あれだけの規模の町なのに、町の建設者が分からないんですか?」
「最初に、町の中心の大劇場があったことは間違いありませんわ。多少の改装や増築はありましたが、あれが最初にあったことは間違いありませんの。でも、誰が作ったのか、さっぱり分かりませんの。わたしたちが気づいたころにはあの劇場があって、それから劇の好きな人たちが集まって、町になりましたの」
「町の歴史はどのくらいなんでしょうか?」
「わたしと主人がまだ若かったときですから、そう古くありません」
「奥さまも町ができたときからの住人なんですか?」
「はい。でも、わたしに何があったのか、きかないでくださいね。わたしもなぜだか覚えていないのです。ただ、あのときは生きるのに必死でしたし、劇に関わることが楽しくて楽しくて、毎日があっという間に過ぎていきましたの。主人はあのころから何か気難しいことを言っていましたけど、まだ市内に住んでいましたし、劇のこともあんなに嫌っていませんでした。いつごろからでしょうか。この古い地主屋敷を買い取って、それ以来、主人はこの家を増築し続けていますの」
「これ、全部、ご主人が?」
「ええ、そうですの。演劇は何も生まないって言いながら。家を生み出すことは劇よりもずっと素晴らしいことだって。でも、演劇があの町を生み出したのですから、主人の言い分は間違っていますわ」
あなたの息子は役に入り込んで死にましたとこたえて、依頼人が納得してくれるだろうかと考える。
たとえ納得したとしても、同業者のあいだでの噂が変なふうにまわって、誰を殺せばいいのか分からないから、そんな言い訳をしたのだと言われると、依頼が減ってしまう。
うーん、どうしたもんかなと唸っていると、表のほうが騒がしくなった。
殺し屋という職業で世のなかを渡っていると、そういう騒ぎにも通じてくる。
この騒ぎは不安と硝煙の騒ぎだ。
ホテルから出てみると、猟銃やスポーツ・ハンドガンなど個人所有の銃を持った民間人たちがなんとか民兵隊を結成しようとあくせくしていた。組織化された暴力がこの町を襲おうとしていて、住人はそれを跳ね返そうとしているのだ。
ちょうど一台のトラックが路地から曲がってきて、表通りに入るところだった。普段は収穫した農作物を運ぶためのトラックに銃を持った男たちを満載していて、運転席の横にあるステップには制服の上に防弾チョッキを着た女性警備隊員がつかまっていた。
彼女は殺し屋を見つけると、運転手に停まるように言い、たずねてきた。
「あなた、銃は使える?」
「人並みに」
「後ろに乗って」
「何があったの?」
「盗賊たちが来る」
荷台に乗って分かったのだが、彼らは銃は持っているが、旧式で、警備隊の制服を着ているものはいなかった。前掛けからおがくずのにおいがする家具職人、指がインクで黒ずんだ役人、酒場のオーナー、弁護士。そして、役者。殺し屋が十把一絡げにカタギと呼んでいる連中だった。
銃はトラックの荷台に乗っていて、普段から仕切り癖のある舞台監督が配布を采配していた。殺し屋の言動か仕草が気に入らなかったのか、あるいは嫁を寝取った男に似ていたのか知らないが、殺し屋がもらえたのはクルンカ銃だった。もともとは先込め式の古い銃で、これを無理やり元込め式に改造したのだが、撃つとひどく白い煙がボワリとあらわれるので、遠くからでも敵に見つかりやすい、極めて危険な銃だった。もちろん暴発の危険もある。
「オイルあります?」
オイルをひたしたハンカチを込め矢に結んで、念入りに銃身のなかの鉛クズや煤を拭きとった。それでも撃針が出っ張ったきり戻ってこなくなり、銃を一から分解して、また組みなおすしかない欠点は解消できないが、それはもう、この手の改造銃に備わったデメリットとしてあきらめるしかなかった。
「せめてボルトアクションなら」
殺し屋たちを乗せたトラックは町外れの原っぱまで来ると、そこで停まった。
ただ、そこは本当に何もなかった。銃弾から隠れるのに都合のいい岩や切り株もないのだ。
あるのは青い、茎のない雑草ばかり。
ターゲットに枕カバーをかぶせて、後ろから頭を撃ったことがあったが、それがこんな草原だった。
警備隊の作戦はひとりにつきニ十発の実弾と景気づけのウォッカの小瓶を与え、五人ずつ、草原に捨てるものだった。捨てられる間隔は百メートルで、素人同然の五人で前線を支えないといけない。
「やつらは自動車でやってくる」
女性兵士が言った。
「タイヤか運転手を狙いなさい。エンジンはダメ」
「あの」と、殺し屋。
「なに?」
「軽機関銃あります?」
「ないわ。町で二丁しかないから、もっと重要な防衛地点に使われてる。劇場に使うお金の一部でもこっちにまわしてくれれば、野戦砲が買えるんだけど」
「とんでもない!」と、舞台監督が叫んだ。「そんなことは文化への攻撃だ。反社会的だ」
「いまの状態が分かる? その文化への攻撃の真っ最中よ。中央劇場のお金をまわせとは言わないけど、盗賊たちの略奪は真っ先にあそこへ行くでしょうね。銀行よりもお金があるわけだし。じゃあ、これまで。長話してる暇はないわ。五人降りて」
トラックは即席兵士たちを乗せて、走り去っている。
草原を見渡せば、自分たちと同様、旧式銃と実弾ニ十発だけ持たされて、ポイ捨てされたのが固まって見える。
殺し屋と一緒に捨てられたのは例の舞台監督と医者、技師、それにホテルのボーイだった。
舞台監督と殺し屋以外はこの町の住人だった。
「二か月前だよ。盗賊たちが来たのは」
技師が言った。灰色の顎髭をしごきながら、もらったクルンカ銃を不安げに見ていた。
「一年に一度来るか来ないかだったのに。間隔が短すぎる」
「喉が渇いてしょうがないや」
ホテルのボーイは敵が見えるまで飲むなと言われたウォッカの小瓶をさもいますぐ飲みたいみたいに見ていた。ボーイの年齢は十三歳、アルコールに対してアル中のような態度を取れば、大人らしく見られるという致命的な誤解をしていた。
「盗賊どもはこっちから来るのかな?」
「前は町の西側までまわって攻めてきた」
「これだけ銃があるんだから、大丈夫に決まってる」
「あいつらには機関銃があるんだよ」
「演劇を愛する諸君。文化の危機だ」
「黙ってろ、バカ」
殺し屋は雑談に参加していたが、心は別の場所にあった。
古い黒色火薬は信じられない硝煙を吐く。それは濃密な白い煙で喉がかわいて、目から涙が出る。それ以上にものが見えなくなる。五人で一斉に発射したら、当てるべき的が輪郭を失い、もう五発発射すれば、もう目が見えないも同然だ。だから、最初の一発で仕留めないといけない。
せめて風があれば、煙は除けられるのだが、初夏の草原は温い空気がとどまって、雑草由来の青いにおいが染みついている。
ちらりと北のほうを見る。百メートル先の五人のなかに殺し屋の隣部屋の住人であるアンドレイ・ボノフがいる。殺し屋とは違うトラックで徴兵されたのだが、どういうわけかこんな近くに捨てられた。
もし、ボノフが凄腕のスナイパーの役にはまり込んでいれば、悪くないスコアを上げられるだろうが、実際のボノフはメロドラマの悪役である邪教集団の司祭の役をもらっていた。狂信者たちがある美女を自分たちの儀式に生贄をして捧げようとするところを、主人公のバイオリン弾きがやっつけて、幸せに暮らす話だ。温和なボノフはすっかり役に入り切り、ホテルのあらゆる人間に悔い改めろとわめいた。役から抜け出ると、また元の温和なボノフに戻るのだが、台本を頭に入れようとし始めると、ボノフは自分以外の全員が地獄に落ちると思っている狂信者になってしまう。
殺し屋は演劇に疎いが、それでもこの町が異常なことは分かっていた。人間の性格に上塗りがされる様を何度も目撃することはあまり気持ちのいいものではない。ひょっとすると、盗賊たちだって、もとは善良な役者たちで盗賊の役にのめり込んで、取り返しのつかないところまで行ってしまったのかもしれない。
この町のこの異常さについて、それなりの調査をすれば、それで依頼主への義理立ては終わるだろうか? 撃ち殺す相手がいないのは殺し屋として非常に困る話だった。
草原に捨てられてから十分後、地平線に七台の自動車が見えてきた。
だんだん近づいてくるにつれて、それが四台の乗用車と三台のトラックからなる襲撃隊だと知れ、草原に散らばった民兵たちが緊張した。
殺し屋は膝射ちの姿勢をとって、照準器を立てて、七十メートルの位置で金具を止めた。
パンパンと遠くで味方の発砲音がきこえた。
まだ三百メートル離れている。三発撃って一発くらい当たらないことはない距離だが、それは塹壕に四年以上入ったベテラン兵でのことで、昨日まで演劇のことばかり考えていた民間人では厳しい距離だ。ものの本では昔の戦争で先込め銃で五百メートルの狙撃を成功させたと書いてあるが、どうなのだろう?
彼岸の距離が百五十メートルまで迫ると、あちこちで発砲が始まった。
医者と舞台監督が撃った。続いて、ボーイが撃った。
七台の車は怯みもせず、走ってくる。
弾は重さでお辞儀をする。車のすぐ上を撃つつもりで狙わないと、地面に刺さるだけだ。
辛くて火薬くさい白煙がもわもわと滞留する。
技師は撃たない。趣味で狩猟をしているのだろう。
七十メートル。殺し屋はトラックの運転席を狙って引き金を絞った。
フロントガラスに真っ赤な血が飛び散って、トラックは大きく右へ曲がった。
技師が撃った。前輪がパンクして、あっという間にゴムが禿げ、剥き出しのホイールが柔らかい土にめり込み、
あ――
と、思っているうちに横転した。三人の盗賊がバラバラに地面に投げ出され、運のないひとりが転がり続けるトラックに巻き込まれて見えなくなった。
盗賊の姿が見えた。ひとりは太っていて、もうひとりは痩せていた。ふとったほうが赤いバンダナを頭に巻いていて、古風なガンベルトをぴっちりと腰につけていて、痩せたほうは映画の影響か、大きな白いカウボーイ・ハットをかぶってきた。そして、こっちもガンベルトを巻いていたが、こっちのベルトはぶかぶかでいまにも腰から落ちそうになっている。
このふたりはリヴォルヴァーしか持っていなかった。
これに殺し屋はカチンと来た。近距離火器だけでライフルを持たないということはこのまま自動車で市内に突っ込めると思っていたということだ。殺し屋の守る地点を突破できると思っていたのだ。
殺し屋は思わずつぶやいてしまった。
「教育が必要だな」
殺し屋は薬室カバーを開けて、空薬莢を抜き、新しい弾を込め、カバーを閉じ、撃鉄を上げた。
発砲すると、痩せたほうの頸がカウボーイ・ハットをかぶったまま、上に飛んだ。
古いライフル弾は銅で被膜した現行のライフル弾に比べて貫通力がない。
ただ、古いほうが人体をよりひどく破損する。弾頭は丸っこく、鉛でできている。命中すると体のなかで柔らかい鉛が飛び散るのだ。
技師の発砲で太ったほうのバンダナが消えた。
あとで分かったことだが、太った赤いバンダナは盗賊団のボスだった。
左隣の乗用車がボスの仇を討つべく、殺し屋たちのほうへ曲がって、突っ走ってきた。
舞台監督と医者とボーイは戦力に数えず、技師に言う。
「タイヤを」
「わかった」
殺し屋はまた運転席を狙い、タイヤを狙いやすく、横にカーブさせようとねらった。
そのとき、殺し屋の照準と自動車のあいだに物陰が飛び込んだ。
「悔い改めよ!」
不死身の邪教司祭がそう叫んで、車の前に立ち、そのまま車輪の下に消えた。
殺し屋が引き金を絞り、フロントガラスが吹き飛び、車は横滑りして停車した。
三十メートルの距離で、隣の五人組マイナス哀れなボノフの四人組と殺し屋サイドの五人組が十字砲火を浴びせた。盗賊たちはパニックを起こし、車から飛び出しては血をブリヤン草に飛び散らせながら斃れていく。
戦いは終わった。
残りの自動車はみなUターンして逃げていく。
歓声が上がるなか、殺し屋は自動車の轍を辿っていき、絞られた雑巾みたいに体が曲がったボノフの死体を見つけた。目を飛び出させ、食いちぎった舌が口の端から皮一枚でぷらぷらしていた。
「死者がひとり、か」
見れば、女性兵士が立っていた。
「なかなかの腕ね」
「よく叔父に狩りに連れていかれててね」
女性兵士は手を差し出して、名乗った。
「アンナ・カジッチよ。隊長からきいた。ドミトリー・マクシーモフの強盗殺人事件で話をききたいと」
「そうなんだけど」
と、殺し屋はボノフに目をやった。
「どうしてあんなことになったのか、もうほとんど納得できたよ。あなたも劇は好き?」
「人並みに。軽いものを見るだけよ」
負い革で銃を担った技師がやってきた。
「やあ、アンナ。彼を警備隊に勧誘しないなら馬鹿だぜ。いい腕だ」
「彼は来ないわよ。そうよね?」
「そうだね。一か所にとどまるのはちょっと苦手で」
そうきくと、アンナと技師はそのこたえがとっておきのジョークみたいに賑やかに笑った。