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木にもたれて自分を待っていたのは子供にしか見えなかった。
薄汚れた古めかしいフード付きのマントを身につけ、布で鼻から下を隠し、見えている目はぎらぎらと鋭くアルノーを見据え、目の下には隈ができていた。自分よりずっと小柄で、腕も細く、剣を交えれば一撃で倒せそうだ。こんな奴の手下として七日間を過ごすのか。自分に何をさせようとしているのか全く読めなかった。
「おまえが悪魔が遣わしてきた男か」
悪魔が遣わした男。アルノーを連れて来たあの男を悪魔と呼ぶのか。なかなか言い得ている、とアルノーは口元を緩ませた。
「そうだ。七日間、おまえの元で働けと言われてきた」
「酒臭い…。酔ってるのか」
息から洩れる酒の匂いに、子供は顔をしかめた。
「いきなりこんなところに連れて来られて、酔いも冷めたさ」
「腕は確かか」
「どの程度期待するかによるが、ここ数カ月は剣も売っ払って握ってなかったな。ただで剣をもらえてラッキーと思えばいいか」
その言葉に子供は顔をしかめたが、半ばあきらめたように息をついた。
「一人よりはましか。…ディアンだ。よろしく頼む」
「アルノーだ」
互いに握手のために手を差し出すこともなく、ディアンは木の下に繋いでいた二頭の馬の一頭にまたがった。
「馬は乗れるか」
「ああ」
「それでは早速だが、一緒に来てもらう」
二人が馬を走らせるのを見届けると、馬車は二人とは反対の方向に去って行った。
どこまでとも言わず走り出した馬は途中何度か休憩も取ったが、ほぼ夜通しで走っていた。
日が昇る頃、片田舎のみすぼらしい小屋の側で馬を降りた。
小屋の周りは雨の日に何か荷物でも運んだのか、多くの轍と馬や人の足跡で地面が荒れたまま固まっていた。小屋の扉は壊れ、中にあったものは運び去られたらしく、泥の足跡と紙や木の破片が残るだけだった。
ディアンは小屋の周りや小屋の中を入念に観察したが、アルノーには何の説明もしなかった。残された紙片を拾い、何も書かれていないのを見てそのまま手放し、外では轍が伸びる先を入念に確認した後、
「次だ」
と言って、再び馬を走らせた。
次に着いたところは、小屋からさほど離れていない小さな町で、一軒の農家に立ち寄り、庭先で働く使用人と思われる男に声をかけた。
「あの森の手前の小屋はこの家のものだな」
「ああ、この家のものだが、他人に貸してあるんだよ。この前来た役人にも同じことを聞かれたが…」
「この家の主人はいるか」
「ちょっと待ってな」
使用人らしき男はのそのそと歩みを進め、家に入ると、そうしないうちに恰幅のいい男が出てきた。面倒そうな顔で
「あの小屋のことを聞きたいそうだが?」
と聞いてきたが、ディアンを見ると急に扉を閉めようとした。ディアンが素早く扉に足を挟むと、アルノーが無理やり扉をこじ開けた。
「誰に貸していた」
口ごもった男に、ディアンは短剣を突きつけた。
「お役人でもないのに、答える必要は…」
「質問に答えろ」
「く、…組合長に、」
「おまえは子爵に貸したと言ったそうだな」
「組合長が子爵様に又貸ししていたと…」
「見たのか? 子爵がここに来て、あの小屋を使っているのを」
「いえ。…ですが、組合長がそう言って…」
こんな子供ほどの小柄な人間に脅されて、震えを消せずにいる。ディアンの目が本気で男を殺しかねないほどに殺気に満ちているからか。刃物の扱いにも慣れているようだ。
自分は後ろにいるだけの用心棒でいいのか、アルノーは少し悩んでいた。手下と言われながら何の指示もないので、状況を見ながら上官の不利にならないよう動くしかない。
「組合長に貸していた証文は」
「あ、…あります」
主人が一旦部屋に戻り、出してきた小屋の借用書を確認すると、それを無言で自分の鞄に入れた。主人は取り返そうと手を伸ばしかけたが、目と目が合った途端、手を引いた。
「邪魔をした」
ディアンが立ち去るのに合わせ、アルノーもその場を離れた。
続いての行き先は、予想通り組合長の所だった。
途中、町の人に出会えば声をかけ、小屋の様子を聞いていた。二カ月ほど前から時々明け方や夕暮れ時に小屋に馬車で何かを運び込んでいるのを見かけた者がいたが、農具か肥料でも運んでいる程度にしか思わなかったようだ。
この集落の農業の組合長をしている男は羽振りがいいらしく、家の調度品も家の者が身につけているものも田舎の町に住む農民にしては比較的上等なものを使っていた。
呼ばれて出てきたこの家の主人は朝っぱらから酒に酔っていたが、ディアンを見ると驚き、一歩退いた。
「あの小屋のことを聞きに来た。又貸しをしてたそうだな。…いくらで貸していた」
「い、いきなり何を」
「貸した相手は?」
「し、…子爵様、に」
「どこの子爵だ」
男は目をそらせた。ディアンは不気味なほどに優しい声で、
「嘘はつく必要はなかったんだな」
と言って笑った。
「子爵とだけ答えれば、都合よく誤解してくれる…。城から来た役人にもそう言ったんだな」
「向こうが勝手に誤解しただけだ。そう言えばいいと言われて…」
組合長の言葉を遮ったのは、鞘から抜かれ、首元に突き付けられた剣だった。
「…借用書はあるか」
「あるが、子爵の名では…」
「それでもいい」
組合長はふらつきながら家の中に入り、ディアンは剣を鞘に納めた。やがて組合長は書類を手に戻ってきたが、その手は震えていた。
ディアンはひったくるようにその書類を眺め、そこに書かれた文言を確認した。
「借りてた三倍の値段か。ずいぶん儲けたな。阿漕な商売だ。…あんな小屋ごときにこれだけの金を払う意味はあったということか」
そしてそれをそのまま自分の鞄に入れると、踵を返した。その背中に向かって組合長は言い訳を続けた。
「…仕方がなかった。恨みがあった訳じゃないが、わしらだって自分が可愛い。村や家族を守るには…」
組合長の言葉にディアンは一旦足を止めたが、そのまま振り返ることなく立ち去った。