第三章
第三章 芽吹いた種が実りを結ぶ
暑さの名残が中々抜けきらない九月。教室内では夏休みの思い出を語るクラスメイト達で賑わっていた。
「おはよう」
私が明希と一緒によくいる人たちのグールプにいつものように声を掛けた。
「あ、うん」
だけれど、それは今までと違い明らかにおざなりな返事だった。
彼女とは特別仲が良いわけではなかったけれど、普通には会話をする程度の関係だったはずなのに、久々に会ったせいなのか態度がそっけないような気がした。
「おはよー」
そこに明希の明るい声が加わわり、私の隣に歩み寄ってきた。
「おはよう」
その場にいたみんなが同じように挨拶を返す。
「明希は夏休みどこかに出かけに行った?」
グループの内の一人が、周りでも賑わっている話題を明希に振った。
「そうだね、あんまり遠出はできなかったけれど、咲奈と一緒に水着を買って海に行ったんだよ」
楽し気に明希が語った時、みんなの視線が私を向いていた。
「行ったね。楽しかったけれど、明希がナンパされたりして大変だったよね」
妙な居心地の悪さを感じながらも話題を広げると、グループ内の別の人たちが話題を続ける。
「流石は明希だね。それで、その人とは何かあったりしなかったの?」
「私もその後どうなったのか気になるな」
興味津々な二人に明希は笑いながら答える。
「別に何かあったりするわけないよ。咲奈と一緒に遊びたくて海に行ったんだから、ナンパされて本当に困ったんだからね。私の巻き添えで咲奈まで誘われちゃったんだから」
「あれは完全に私はおまけ扱いだったけどね」
普段ならまず起こりえないことを経験出来てよかったとも思ったけれど、それでも迷惑な思いの方が強かったな、と思い返す。
「いいよな。私も明希と海行きたかったのに結局都合が合わなかったもんなぁ」
「それは本当にごめんね。私もみんなと一緒に海に行きたかったけれど、どうもタイミングが合わなかったの。来年は絶対に行こうね」
一緒に遊べなかったことでいじけている彼女に向けて、明希が両手を合わせて謝っていた。「今ちゃんと聞いたからね。来年こそは一緒に一杯遊ぶよ?」
「わかっているよ」
隣で来年の約束を取り付けている姿を見ながら、私は明希がそんなに忙しくしていたようには思えなかった。その訳は、私の誕生日の別れ際で言っていた通り、夏休みの間は二人で一杯遊んだからだ。
海以外にも明希とはプールに行ったり、夏祭りを巡ったり、花火を見たり、遊園地にまで行ったりして、夏休みの時間の多くを二人で遊んでいたので、明希も案外暇なのだと思っていたくらいだった。
そんなことを思い返していると、チャイムが鳴り先生も教室に入ってきたので、みんなも自分の席へと戻っていく。
夏休み明け最初の学校は思い出話に花を咲かせている間に過ぎ去っていた。
◇◆◇
九月の中旬を迎える頃には、夏休みの日々が遥か遠い日に見た夢のよう霞んでいて、すっかりいつも通りの学校が始まっていた。
前の授業が体育で、着替えるのにもたついていたせいで自分の席に着くことが出来たのが次の授業が始まるギリギリだった。そして、教科書を取り出そうとしている間にチャイムが鳴り、先生が一緒に入って来る。
「あれ」
机の中を探してみるが、この授業の教科書が見当たらなかった。
「咲奈、どうしたの?」
隣の席に座っている明希が小声で話しかけてきた。
「教科書が見当たらないの。忘れたのかな?」
毎晩しっかりと翌日の確認をしていたつもりだったのに、机の中をいくら探してもお目当ての物はなかった。
「咲奈が忘れるなんて珍しいね。ちょっと待っててね」
そういうと明希は立ち上がった。
「先生、咲奈が教科書を忘れちゃったみたいなので、机をくっつけてもいいですか?」
そこまでしてもらわなくてもよかったのだが、明希の気持ちは嬉しかった。
先生は教科書を忘れた私に軽く注意をしてから、明希の提案を認めてくれた。
「よかったね、咲奈」
そういいながら机を近づけてくる。
「ありがとう、明希」
そして、その授業は明希の教科書を借りて無事に終えることが出来た。
「本当にありがとうね、明希」
教科書を忘れるなんて今までなかったから、今回の対応は本当にありがたかった。
「別にこれくらいいいよ。それよりも自販機で飲み物を買いに行かない? 喉乾いちゃった」
「うん、いいよ」
明希に続いて席を立ち、教室から出ていこうとしたその時だった。
「あれ、これ咲奈のじゃない?」
教室の後ろに置かれている、胸位までの高さの個人用ロッカーの上ににあったそれを見せてきた。
「うん、やっぱりそうだよ。後ろに咲奈の名前が書いてあるよ」
そして渡されたのは先ほどの授業の教科書だった。
一体なんでこんな所にあったのだろうか、と疑問を呈する前に明希が答えになりそうなものを口にした。
「落ちていたのを誰かが拾ってここに置いたのかな?」
「そう……かもね」
床の上に落ちているのよりかはこれの方がまだマシだけれど、名前も書いてあるのだから私に届けてくれればいいのに、とは思った。
「授業後だけど見つかってよかったね、はい」
見つけたタイミングが遅かったことを気にしているのか、バツの悪そうな表情を浮かべて教科書を渡してくれた。
「そうだね。それよりも早く自販機に行こうよ。中休みが終わっちゃうよ」
元々は落とした私が悪いのだし、明希には感謝しかない。
「そうだね、急ごうか」
「うん」
そして小走りで教室を飛び出した。
◇◆◇
暑さも大分和らぎ始めた九月の下旬。長かった学校の一日も終わり、明希と共に帰ろうとして昇降口の自分の下駄箱前に立っていた。
「どうしたの、咲奈? 早く帰ろうよ」
「あっ、うん。そうだね」
明希に促されるが下駄箱を開けるのに気が重かった。轟轟と降りしきる雨の中を帰らなくてはいけないのが面倒だというのもあるが、それ以外の理由の方が大きかった。
意を決して下駄箱を開け、ローファーを手にすると、それはぐっしゃりと水に濡れていた。
取り出したローファーをそのまま地面に置くと、吸い込んでいた水が広がり小さな水たまりを作った。
「また咲奈の靴びしょびしょだけど、一体どんな歩き方をしているの?」
「……普通に歩いているつもりだよ」
少なくとも私が朝学校に来て、下駄箱に仕舞う前にはこんなに濡れてなんていなかった。それに、明希がまたと言っている通り、これがもう何度も起こっていた。初めの方は私の不注意だと思っていたけれども、雨が降るたびにこんな状態になるなんて異常としか言いようがない。
他人を疑うのは嫌だけれども、これは絶対に誰かが私に向けて行っている行為だった。
「嫌かもしれないけれど、他に靴はないんだし、早く帰って乾かしちゃおうよ」
「……そうだね」
観念して濡れたローファー足を入れる。途端にしみ出した水が靴下に伝わり、歩くたびに足の裏で水滴が張り付いてくる。
湿っている地面に、一際大きな雫を残しながら昇降口を出て、雨空の下を明希と歩く。
「それにしてもどうしたの? 最近の咲奈は様子がちょっと変だよ。今日もまた教科書を落としていたし。これで三日連続だよ?」
前に一度教科書を落として明希に教科書を見せてもらう、という事態があったが、なぜだかそれはここ数日続いていた。
「落とした?」
身に覚えのない落とし物への苛立ちで、明希に返す言葉が暗くなっていた。
「明希は、本当に私が三日も連続で教科書を落としたと思っているの?」
雨粒が傘に当たる音くらいしか聞こえない静かな帰り道、言葉尻の強くなった私の声が響いた。
「誰にだって失敗をしたり、調子が悪くなったりすることはあるからね。あまり気に病まない方がいいよ」
明希は苛立っている私をたしなめようとしていた。
「こんなの私の調子とか関係ないじゃん。誰かが私に悪意を持っているとしか思えないよ!」
それでも感情を抑えきることはできなかった。
「なんで? どうしてよ? 私が誰かに何かしたの? 何もしていないのに何でこんな嫌がらせを受けなくちゃいけないのよ!」
次々と溢れ出る感情に歯止めが利かなくなっていった。
「ねえ、助けてよ明希。貴女からクラスのみんなに一言言ってくれれば、こんな嫌がらせすぐに終わるから」
明希にこの感情をぶつけたって意味がないのはわかっていた。それでも、言わずにはいられなかった。
「……先に帰らせてもらうね」
今まで黙って私の言葉を受け止めてくれていた明希は、その言葉を残して駆け足で去っていた。
強く吹き付ける雨粒。これ以上濡れようのないローファー濡らしながら一人きりになった私は静かに歩く。
頬に伝う雫を拭って。