第二章
第二章 燻る火種は静かにはびこる
五月の終わりが見え始め、梅雨が目前にまで迫っていた季節。クラスは明希を中心にして回っているといってもよかった。彼女は人当りがよく勉強もできて運動も平均以上にこなしていた。非の打ちどころが見つからない彼女がクラスの輪の中央になるのは必然だったと思う。
そんなみんなから好かれている彼女に何故だか私は気に入られているらしく、よく明希の方から私の方によって来てくれる。それのお陰で私はいつもクラスでも華やかなグループの中に居座れている。
最初の頃は敬称を付けて呼んでいた彼女のことも、今では普通に明希と呼ぶ様になっていたし、学校で一緒にいる時間も一番長い。きっとこのままいけばもっと仲良くなって、いつかは親友とも呼び合えるようになると思う。
そんなある日の放課後、いつものように明希と一緒に帰ろうと私のローファーに触れてみると少しばかり湿り気を帯びていた。
「どうしたの咲奈?」
「ううん、何でもないよ。水たまりでも踏んじゃったのか、靴が少し濡れてただけだから」
「ああ偶にあるよね。これから本格的な梅雨になると思うと気が滅入っちゃうよねぇ」
「雨の風景って結構好きだけれど、濡れちゃうのだけは困るよね」
苦笑いを浮かべながら湿っているローファーへと足を入れた。想像通りの冷たさが足の裏に広がり、湿り気が靴下の方へとどんどん広がる。
一歩踏み占めるごとに足裏では、ぐちゃりという音が聞こえてきそうな程の水に覆われていた。
「ほら帰ろうよ」
明希は私の手を取ってそのまま歩み始める。
「そうだね」
手を引かれるがままに歩き始めたが、一歩一歩と歩みを進める程に靴下は水に馴染んでいく。
乾いた床に私の足跡を残しながら校舎を後にする。
◇◆◇
六月に入り本格的な梅雨が始まっていた。降りしきる雨音を遠くに聞きながらこれから迎える授業は、体育館でのバレーボールだ。私は運動があまり得意ではないけれども、それでも自分なりには一生懸命に取り組んでいた。
授業時間が半分を過ぎたあたりでチームごとによる試合をすることになった。
私のチームは、私と明希とよく一緒にいる友達四人の構成で、対戦相手もよく一緒にいる友達だった。
「それじゃあ勝つよ!」
明希が率先してみんなを盛り上げて、それに続くように私たちが「おー」と掛け声を上げる。
「頑張ろうね、咲奈」
「できる限り頑張るよ」
きっとこの中では私が一番下手だろうから、足を引っ張らないように努めよう。そんな決意を胸に試合が始まる。
私が邪魔になるのではないか、と思っていた試合も蓋を開けてみれば以外と拮抗していた。両チームが互い違いに点数を取っていくので、授業終了時間が迫ってもほぼ同点のまま試合は進んでいた。
点数を入れた私たちのチームからのサーブでまた相手側にボールが入り、一人目、二人目を経由した球がネット際に綺麗に浮き上がり、三人目の人がそれを強く打ちはなった。
「咲奈!」
明希が私を呼んで、その強い打球が私の方に来ているのに気が付いて、急いで手を組んでボールを取ろうとした。上手くボールを正面に捉え、綺麗に打ち上げられたと思ったのに、次の瞬間には視界が真っ暗になり、額に痛みが響いた。
「咲奈!! 大丈夫!?」
明希の声と共に私の下へと駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「ああ、うん、大丈夫大丈夫」
レーシブを上手にできたと思っていたから、文字通り面を食らったけれど、痛み自体はそれほどでもなかった。
「ちょっとよく見せて?」
そういって明希は私の前髪を持ち上げて、額をまじまじと見つめていた。
「大丈夫じゃないよ。赤くなっているじゃない。もし傷にでもなったら大事よ?」
「このくらいなら何ともないと思うよ」
「私が何とも思うから駄目よ」
目の前にある明希の顔が少し険しくなった。
「先生、咲奈が怪我したので保健室に連れていきます」
言うと同時に私の手を引いて体育館を出ていこうとする。
「あ、明希ちょっと待ってよ!」
「待たないよ。それにこのままじゃ心配でまともにバレーボールできないもん」
明希の勢いに気おされて、そのまま体育館を後にし、保健室に到着した。
「失礼します」
「します」
明希のはっきりとした声に続けて、おずおずと室内に入っていく。
返事はなく、外で降り続く雨音ばかりが耳に届いた。
「誰もいないみたいだし、私が処置しちゃうね」
そう言いながら明希は辺りを見渡し、見つけた保険箱を持ってきた。
「ほら、患者さんは座って」
備え付けられている椅子に案内され、そのまま腰を下ろす。
「なんだか楽しんでいない?」
「バレちゃった? こういう機会ってあまりないから、なんだか面白いよね」
話しながら明希はガーゼに消毒液をしみ込ませ、それを私の額に触れさせる。
「しみない?」
ひんやりとした冷たさが額に留まる。
「うん、大丈夫。ぶつけただけで血も出ていないでしょ?」
「そういえばそうだね」
明希は手にしていたガーゼを捨て、絆創膏を私の額に張り付ける。
「なくても大丈夫だと思うよ?」
「授業を抜けるくらいの怪我っぽく見せるためにも、これくらいはした方がいいかなって思ってね」
悪びれる様子も見せずに明希ははにかんでいた。
「もしかして私の怪我が大したことがないって気づいていたの?」
「あはは、バレちゃった」
明希は舌を出して茶目っ気を混ぜた表情を見せる。
「どうしてこんなことをしたの?」
こんな行動を優等生の明希がとるとは夢にも思っていなかった。
「だって、最近は咲奈と二人っきりの時間って全然なかったから」
そして、その返答は更に想像もしていないものだった。
「別にみんなと一緒にいるのが嫌いなわけじゃないけれど、それでもやっぱり、偶には二人だけの時間も欲しいなぁって思っていたの」
「それって、どういう……」
意味なの、と続けて訊こうとした時、頭の隅から一つの記憶が蘇ってきた。
『もういっそのこと、その明希さんと付き合ったらどうよ?』
それは高校に入学したばかりの頃に舞香が言っていた冗談だ。
「どんな意味なのか、訊きたい?」
言葉を詰まらせている私に一歩近寄るなり屈み、座っている私と目線が揃う。
「本当に知りたいなら、もう言ってもいいかなって思っているんだよね」
明希の丸く大きな瞳に私の姿が映る程の距離になっていた。
「どうする? 咲奈?」
目の前にあるのは先ほどとは打って変わって真面目な表情だった。
この受け答え一つで、今後の私たちの関係になにか変化が起きる予感が胸をよぎり、噤んだ口を上手く開けないでいた。
外の雨音がくりぬかれたかのようにはっきりと聞こえる静けさ、どうするのが正解なのかはわからなかった。けれど話を聞いた方がいいと思った。
「訊いてみた――」
――キーンコーンカーンコーン。
途中まで出ていた言葉を封じるようにチャイムが鳴り響いた。
「あ、チャイムが鳴っちゃったね。流石に次の授業までサボる訳にはいかないし、帰ろうか」
目の前にまで迫っていた明希は踵を返し、教室に戻ろうとする。
想定外の言葉が返ってきたとしても受け止めよう、と覚悟を決めていたけれども、明希のあまりにも早い変わり身に戸惑いながらも急いで立ち上がり、小走りで駆け寄った。
「今言っても面白くないしね」
その時、小さく明希はそう呟いたように聞こえた。
そして、これ以上何かを話す素振りのない明希をみて、固めていたはずの覚悟も瓦解していた。
◇◆◇
暑さが本格的に姿を見せ始め、夏休みの後ろ姿が微かに見え始めてきた七月上旬。私は舞香と音々の二人に呼び出されて、いつものファミレスに来ていた。
「緊急事態だからすぐに来てって言われたから来たけれど、呼び出した内容って期末テスト対策なのね」
この時期だからなんとなく想像はしていたけれど、やっぱりそうだった。
「私らがどれだけ足掻いた所で悪足掻きにからならないけど、咲奈に頼れば幾らかはマシになるんだよ」
「舞香の言う通りだ。これはウチらの夏休みを賭けた戦争の下準備なんだ。こんな大役を任せられる相手なんて咲奈を置いて他にはいないだろ」
頼られるのは嬉しいけれど、勉強が嫌いな二人が真面目にやってくれるかどうか、という不安もあった。
「それにこのまま赤点とったら、もう決まっている合コンの予定が、補講なんていう糞みたいなものに塗りつぶされてしまうんだよ!」
「そんなウチらの救世主になれるのは咲奈しかいないんだ」
二人が必死になっている理由を聞かされて、私は呆れ笑いを浮かべていた。
「理由はともあれ、勉強をする気になったのはいいことだと思うよ。教えるのも私でよければ構わないし」
私自身ももうそろそろ期末テストが待っているから、それに向けての勉強をしようと思っていたところだった。
「流石は咲奈だな。いざという時ほど力強いよ」
「お礼に飲み物を幾らでも奢ってやろう」
「ドリンクバーだか元々飲み放題だよ」
舞香のお世辞と音々の冗談を軽く受け流してノートに向かう。
「そういえば本当に合コンなんてあるんだね。都市伝説かと思っていたよ」
私の周りではそんな話を聞かなかったから、それが実在していると知って少し驚いていた。
「割と普通にあるって。むしろ私の方から言わせて貰えば、女子校の方が頻繁に合コンをやっているイメージだったんだけど」
「確かにそうだな。そうでもしないと出会いなんて全くないだろ」
私と二人の間には印象に結構な差が開いていたようだ。
「いわれてみれば確かにそうだよね」
クラスメイトにも何人か彼氏がいる人がいるけれど、その人たちはそうやってであったのかな?
「そうだ、折角だし咲奈も合コンに来てみないか? 私らが補講を回避できたお礼ってことで」
「そうだな。無理強いはしないが偶には来てみてもいいんじゃないか? そうでもしないと女子校じゃ本当に出会いなんてないだろ。いつだか言ってたえっと……明希さんだったか。そいつと付き合うつもりもないんだろ?」
普段ならすぐにそんなわけないでしょ、と言い返していたけれど、音々にそう言われた時に保険室での出来事が脳裏に蘇っていた。
「……もう、冗談はやめてよね」
あの時、明希が何を言おうとしたのはかはっきりとわからなかったし、その後になっても訊けていなかった。
視線の先にある教科書を眺めながら、あれは一体どういう意味だったのだろうと物思いにふけっていると、舞香が思い出したかのように話し出した。
「そういえば、今回の合コンを持ち掛けてきたのって咲奈にもいつだか話したアキなんだよ」
「そうそう、ウチらもアキのことなんてすっかり忘れていたから、最初は断ろうとも思っていたんだけど、予定もなかったし、テストを乗り切る目的も欲しかったから受けたんだよな」
その名前を出されて、そういえばそんな話をされていたのを思い出した。
「友達のことを忘れていたってちょっと酷くない?」
クラスメイトとは仲良くなれたとは思っているけれど、ちゃんとした友達だと言える人が明希くらいしかたできなかった私には、数少ない友人を忘れる感覚がわからなかった。
「別に互いに友達だとは思っていなかっただろうし、問題ないんじゃないか? 今回話が私たちに回ってきたのも他に当たるあてが居なかったからだろうし」
「だろうな。逆の立場ならウチもそうでなきゃ誘わないしな」
だから二人の淡泊な様子には驚かされた。
「そういうものなんだ」
最近二人と会える機会がめっきりと減っていて、いつかは私も忘れられてしまうのではないか、と思ってしまった。
「あのな、咲奈。今碌でもないこと考えていそうだから言うけど、私らの関係が多少会わなかっただけで変わるとか思っているようなら、無駄な心配だからね」
「舞香の言う通りだ。咲奈のことをどうでもいいとか思っているなら、そもそもこんなに長く友達やってないからな」
付き合いが長いこともあってか、私が塞ぎ込みそうになる前に先回りされてしまった。
「そうだよね」
二人の言葉を聞いてこんなことを考えていたのが馬鹿らしく思えた。
「ということなので、ここ教えてくれない?」
「ちなみにウチはここがわからない」
そういいながらわからないところを差し向けてくる。
「もう、調子がいいんだから」
口では不平を漏らしながらも、満たされた暖かい感情を味わいながら勉強会は続く。
◇◆◇
雲一つない快晴の中、太陽が煌々と輝く七月下旬。夏という季節に相応しい猛暑と共に夏休みも始まっていた。舞香と音々と開いた勉強会の成果なのか、二人からは無事に夏休みを楽しめそうだ、と連絡が来ていた。
そんな始まったばかりの夏休み。私はアスファルトからの照り返す暑さを感じながら明希と待ち合わせをしていた。
思っていたより早く待ち合わせ場所についてしまったな、と思いながら携帯で時間を確かめようとしたら、舞香と音々からメッセージが来ているのに気が付いた。
『誕生日おめでとー。私らは今日戦いに挑んで来るよ』
『いい結果報告を待っておくんだな。それと誕生日おめでと』
今日が合コンに行く日なんだ、と思いながらもそれぞれにありがとう、と返信をしておく。
そう、今日は私の誕生日だった。だから今日遊ぼうと明希に誘われた時にもしかしたら祝ってくれるのかな、と期待をしたけれど、明希に私の誕生日を伝えた記憶がなかったので、お祝いに関しては諦めて普通に遊ぼうと思う。
それから待つこと数分。
「ごめんね咲奈、待たせちゃったね」
私を見つけた明希が小走りで駆け寄ってきた。
「ううん、私が早く着いただけだから」
明希が着いた時間が待ち合わせの五分前なので、全然遅れてなんていなかった。
「それじゃあ、行こうよ」
そういって、明希は私の手を引っ張って歩き始めた。
「あっ、うん」
そうして私は明希のなすがままに連れていかれるのだった。
◇◆◇
雑貨や服を見て回ったり、喫茶店でお茶をしていたりしたらいつの間にかに空の端が赤く染まってきていた。
もうそろそろ帰る時間だから集合した駅前にまで戻って来た時に明希にちょっと待ってと言われて、昼に待ち合わせたのと同じ場所で立ち呆けている。
「お待たせ。はいこれ、誕生日プレゼント」
「えっ」
想像もしていなかったプレゼントの登場に驚きを隠せなかった。
「何が欲しいかよくわからなかったから、こんなもので恐縮なんだけどね」
そういって何かが私に向けられた。
「これは、お花?」
黄色い花束が私の前に差し出されていた。
「そう、百合の花。本当は生花にしようと思っていたんだけど、百合って花粉が服とかにつくと取れにくいし、枯れちゃうのは悲しいなぁって思って造花にしたの」
「プレゼントを貰えるなんて思っていなかったから本当に嬉しいよ。ありがとう」
そして花束を受け取った。
「私も受け取って貰えて嬉しいな。友情の印として、この黄色い百合の造花を貴女に贈りたかったの」
「でも、どうして百合の花なの?」
「プレゼントって自分が貰って欲しいものをあげるってよく言うでしょ? だから私が好きなお花をプレゼントしたかったの。造花なら枯れなくていつまでも手元に残しておけるし、お手入れをする必要がなくて楽だからね」
「うん、ありがとう」
本物みたいに精巧に作られた造花を胸に抱える。
「でも、よく私の誕生日を知っていたね」
「ほら、覚えていないかな? 入学したばかりの頃に私がみんなの誕生日を訊いて回っていたことがあるんだけれど」
そういわれてみればそんなことがあったような気もするが、入学当初は色々と緊張していたせいなのか、全然思い出せなかった。
「第一の目的は咲奈にサプライズを仕掛けることだったから、その反応を見れて私的には大満足かな」
悪戯が成功した子供のような微笑みを浮かべ、明希は踵を返した。
「目的も達成したし、随分と暗くなってきたから帰らないとね。それじゃあバイバイ咲奈。夏休みは沢山遊ぼうね」
「そうだね、バイバイ」
改札へと続くひとの流れで明希の姿見えなくなるまで見送った。
「私も帰らないとね」
腕の中に抱えた花束に微笑みながら家路へと着く。
◇◆◇
明希のサプライズプレゼント貰って帰宅し、もうそろそろ寝ようと思っていた。
自室のテーブルには明希からもらった造花が活けられており、それを眺めながら今日は楽しかったな、と思い返しながら携帯を開く。
舞香と音々の二人から何か連絡が入っていないかな、と確かめてみるが昼間に来たメッセージ以降音沙汰がなかった。
「まだ遊んでいるのかな?」
例年通りなら誕生日の日に電話を入れてくれたりするのだけれど、今年はどうやらなさそうだった。
明日にでも私から連絡を取ってみよう、と思いながら床に就いて誕生日にお別れを告げる。