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「手を貸してくれるか? ……ってそちらのお嬢さんは?」
医者はミアを見た後に、私へと視線を移した。
私は「アリシアです」と軽く頭を下げる。
「先生! 早く来てく………ってミアさん?」
看護師がミアに気付き、目を丸くする。そして、少し離れた場所から看護師は私たちの元へと駆け足で来る。
こんなに忙しいのに、患者を放っておいて大丈夫なのかしら。
「彼女が今噂のデュルキス国から来た子か」
医者は私をまじまじと見つめる。看護師も私たちのところへとやって来て、「手伝いにきてくれたのですか?」と明るい表情を浮かべる。
……一体どれだけ人手不足なの、ここ。
私がそんなことを思っていると、患者の声が聞こえてきた。
「だ、だれか……胸が苦し、い」
「すまない、少し行ってくる。また後で話そう」
医者はいそいそと患者の元へと向かう。看護師もそれにつられて「また後で」と軽く私たちに頭を下げて、医者を後を追う。
医者や看護師の雰囲気は明るいけれど、この場所自体はなんだか陰気な場所だわ。
掃除にまで手が回らないほど忙しいなんて……。てか、人を増やせばいいのに。
いくらでも雇えるでしょ、ここは貴族が通っている医務室なんでしょ。
「……誰も働きたがらないんですよ」
私の考えていることを察したのか、ミアは静かにそう言った。
「どういうこと?」
「この状況を見たら分かると思いますが、酷い場所でしょ?」
「う、うん」
正直に言っていいのか分からなかったけれど、私は頷く。
「新人を雇っても、すぐにやめるんですよ。覚えることは多いし、体力仕事だし、患者の人数がこんなにもいる。掃除する時間すらもない。もはや、この医務室にはジンクスみたいなものまであるんですよ。『医務室に入れば、悪魔にとりつかれる』とかなんとか」
「悪魔に取りつかれる?」
「はい。なんだか精神的に疲れてしまう人が多いようで……。残っている看護師は彼女だけ」
ミアはそう言って、看護師に視線を向ける。
そりゃ、こんなに暗くて、閉鎖的で、汚かったら、働いている側の精神は疲弊してしまう。
いや、働いている側だけじゃなくて、患者側の精神状態もどんどん沈んでいくだろう。
病は気から、っていうぐらいだし。
「そもそもどうしてこんなにも患者が多いの?」
「怪我をしてる人というのは少なく、ほとんどは心を病んでいる人たちばかりで……。なかなか治らないんですよ。見て分かる通り女性も多いでしょ? 離宮で心を病んだ方も多いんです。本来なら自室で治療を受けるべきなのですが、男性は離宮に入れませんし……。とても優秀な医師なのですけど、どうも心の病には疎くて……。」
精神的な医学治療というのはここでは存在しないのかもしれない。
私はこの悲惨な状況を見ながらそう悟った。
「先生、ここ最近ずっと気持ちが沈んでいて。……このまま暗闇にどんどん落ちていくような感覚なんです」
「前よりも気分が優れませんの。なんのやる気も出なくて……」
「私なんかもういなくてもいいのよ。どうせ誰も気にかけてくれない。……こんな惨めな人生これ以上送りたくないわ」
「生きることに疲れた……、もう全て疲れた」
あちこちから負のオーラが漂い、ぼそぼそと患者たちの声が耳に入ってくる。
みんな完全に気力を失っている。というか、もはや卑屈になっている。目は死んでいるし、口から出てくる言葉は陰気な者ばかり。
私が一番嫌いな空気感だわ。
「ミア」
「はい」
「私、運動したいって言ったはずよね?」
「はい。なので、運動場所をご用意いたしました」
私はミアを見つめた。
こんな場所で走ったら、更に埃が舞って、私まで体調を崩すわよ。
「……そんな顔しないでください。良い運動ですよ。重い荷物を動かすのはなかなかのトレーニングになりますし、ずっと体を動かしているのでいい汗もかけます」
なんか私が思っている運動と随分違った。
てか、なんか私の運動したい気持ちを利用して、人手不足を補おうとしているだけでしょ?
「どうして私が……」
「人の役に立てて、運動ができる、一石二鳥じゃないですか」
「私は別に人の役に立ちたいなんて微塵も思っていないわよ」
「……そうなんですか? 意外です」
ミアの驚いた顔に私は「そう見えるの?」と聞いた。




