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「本来ならわしはあそこであのまま死ぬ予定だった。だから、最初にアリシアに貧困村を出ないかと聞かれた時に断ったのだ。この世界に戻って来れても、もうわしに出来ることは何もないと思っていた」
「……あの時、もうすでに病気だったの?」
声が少し掠れる。
あの時のじっちゃんは元気だった。……なんなら、今も元気そうに見える。弱った様子など少しも感じられない。
じっちゃんが服をまくって、腕を僕の方に向けた。僕は思わず、思考が停止した。何も考えられないし、何も言葉が出てこない。
……緑の斑点。
腕に見られる進行状態だけで、彼がもうすぐ死んでしまうことを示唆していた。
さっきまでじっちゃんが死ぬことを実感出来なかったが、彼の腕を見て、初めて彼の命があと少しだということを全身で理解する。
「斑点病?」
「ああ、そうだ。伝染病などではないから安心しなさい」
安心なんて出来るわけない。じっちゃんを支えると誓ったけど、もう既にその誓いが崩れてしまいそうだ。心が痛くて、何も出来ない。
人間の心はどうしてこんなにも脆いのだろう。どうしたら強くなれるのだろう。
死というものは自分の死ではなく、他人の死だということを実感する。僕が死んでも僕は何も困らないし、何も思わない。僕が死んだ後のことなんて僕には関係ないのだから。
でも、じっちゃんが死んだら? 僕らはどうなっちゃうの?
「どうして? どうしてじっちゃんが? この国じゃ、その病気の人はほとんどいないはずなのに! なんでじっちゃんにその病気がかかるんだよ。こんなのあまりに惨すぎる」
泣かないように我慢していたけど、溢れ出す涙を止めることなんて出来ない。どうしてこんなにも苦しくて悲しいのだろう。まだじっちゃんは生きているのに。
じっちゃんは申し訳なさそうな顔で僕を見る。
そんな顔しないで欲しい。いつもみたいに「大丈夫だ」って笑って欲しい。
家族、親戚、友人、恋人、その死が僕らの心を一番苦しめるのだ。確かに死ぬのは怖い。でも、愛する者の死はもっと怖い。
「これがわしのさだめなんだ」
「そんな運命僕がぶっ壊してやる。マディと同じ成分の薬を作って見せる。だから、お願いだから死なないで! 僕の寿命をあげるから、死なないで」
僕は小さな子供のように泣き叫ぶ。自分の家族が死んだ時よりも心が潰されそうな思いになる。
「もし薬が見つかっても、今わしの容態じゃ、もう手遅れだろう。たとえ、マディを手に入れても無意味だ」
「まだ試していないのに分からないじゃないか! ……キャザー・リズ、そうだ彼女ならじっちゃんを救えるかもしれない!」
「ジル、私の話を聞きなさい」
「僕、もう行かないと!」
そう言って、無理やり部屋を出た。
失礼だと分かっているけど、それでもこれ以上あの部屋に居れなかった。希望を全て否定されたら、僕はもう立てなくなってしまう。
僕が勢いよく扉を開けたのと同時に国王にぶつかりそうになった。
彼の深い青色の瞳に僕が映る。僕は挨拶もせず、その場を走りさった。
「ジルが来ていたのですか?」
ルークはウィルの部屋に入り、そう尋ねた。ウィルは苦笑しながら答える。
「ああ。病気のことを話したのだが、まだジルには受け入れられなかったようだ」
「昨日廊下にいたのはジルだったんですね」
「彼にはまだこの話は早かったのかもしれないな」
「兄上をとても慕っていますからね。それに彼は大人っぽく見えますがまだ子供。……私も兄上がまたいなくなるなんて耐えられません」
「わしは愛されているな」
ウィルは切なそうに微笑む。その笑顔がルークの心をより締め付けた。
尊敬していた兄にもう一度会えた喜びを一瞬にして奪われる。今度こそ兄を救えると思ったルークの心はとても複雑だ。
「わしの役目はとうに終わっていたんだ。この命が燃え尽きてしまう前に、ジルを必ず貧困村から出す。それが、わしが自分に課した役目だった」
ウィルの言葉にルークは目を大きく開き固まる。
ジル一人の少年の為に人生をかけていたということが信じられないようだ。アリシアの良き先生となることでも、貧困村のリーダーになることでもない。ただ一人の少年、ジルの為だった。
貧困村で見つけた唯一の目標だったのだろう。
「彼はあんなところにいるような人材ではない。家族のいない彼はあの残酷な世界では師となる人間が必要だった。そこにアリシアが現れて、彼女がジルを連れ出してくれた。彼のことをわし一人の力では外に出せないことは分かっていた。だが、ある日、デュークはわしに令嬢が来るということを知らせた。それはアリシアを守ってくれということだったが、当時はそれをただジルを貧困村から解放させてやれるかもしれないというチャンスに過ぎなかった。アリシアが来てからジルが貧困村を去るのはあっという間だった。……本当に彼女は凄いな」
ウィルは嬉しそうに顔を綻ばせる。ルークは彼のその満足そうな笑みに何も言葉が出てこなかった。
誰よりもジルを愛していたのはウィルだったのかもしれない。