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「なくなったなんて、そんなの知らなかったわ……」
「論文を読んでるだけだと現状は分からないからね」
なんだか、呆れを通り越して彼女が可哀想に思えてきた。
キャザー・リズは寝るのを惜しんで勉強していると言っていた。
だから、彼女の成績は常に上位だ。学力試験の貼り出しは、いつもデュークの下に彼女の名前がある。
相当な努力をしているのは分かる。けど、僕はどうしてもアリシアと比べてしまう。
「ねぇ、ジル君、私に勉強を教えてくれないかな?」
ふわりと甘い匂いが漂う。あんなにキャザー・リズを嫌悪していたのに、少し惹かれている自分がいる。
年下に勉強を教えてもらうなんて、プライドがないのだろうか。そんなプライドを捨てても、世界を学びたいと思っているのだろうか。
「その見返りは?」
「私にはジル君の傷ついた心を癒せるような力はない。だけど、私は貴方をもっと知りたいわ」
話が全く噛み合わない。これ以上話をしても無駄だと分かっているのに、足が動かない。彼女の傍が心地よく感じる自分がいる。
それに、僕の心は傷ついていない。幼い頃の貧困村で受けた数々の酷い出来事も今はもう何とも思わない。それぐらいアリシアが僕に愛を注いでくれた。
勝手に決めるな、と声を荒げたいのに、キャザー・リズの傷つく表情を想像すると何故か何も言えなくなる。
一体なんなんだ……。自分の身体なのに、自分で操作できない。
「ジル」
澄んだ低いその声を聞いて、一気に体が軽くなったような気がした。
デュークの声だ。
「ここで何をしてるんだ?」
彼はキャザー・リズを訝し気に見つめる。彼女の顔が少し引きつる。
「別に何も無いわ。ただジル君と会話していただけよ」
「それで、話はもう終わったのか?」
「ええ。私、ジル君から勉強を教えてもらおうと思うの」
彼女は少し口角を上げてとろけるような笑みを浮かべる。
僕から勉強を教えてもらうことがそんなに嬉しいのか? ……なんだか不気味だ。
「僕、教えるなんて一言も言ってないよ」
「え? けど、さっき」
「見返りに何をしてくれるか聞いただけで、あんたに何か教えようと思わな……」
キャザー・リズ監視役。突然、その言葉が頭に浮かんだ。
そうだ、アリシアの役目を僕は果たさないといけないのかもしれない。彼女がしてきたことを継ぐのは僕だ。
「ジル君?」
突然話を止めた僕を不審に思ったのか、キャザー・リズは僕の顔を覗き込む。
「分かった。教えるよ。けど、本気でついてきてね」
「もちろん!」
彼女の表情がパッと明るくなる。デュークは驚くことなくただキャザー・リズを冷たい目で見ている。
「有難う! じゃあ、私今から特別授業があるからこれで!」
彼女は手を振りながらその場を去って行った。
……全属性は大変だな。
「一人でいる時に彼女に会わない方がいい」
キャザー・リズが見えなくなってからデュークは静かに呟いた。
「どうして?」
「ジルは全く魔力を持っていないだろ」
彼のその一言で全てを察した。
さっきのあの妙な感覚は彼女の魅惑の魔法のせいだったのか。僕は魔力を全く持っていない。だから、彼女の魔法に少しでも抗うことは出来ないんだ。
「まぁ、魔力ゼロの割にはかなり抵抗出来ていたと思うが」
「褒められているんだよね? ……なんだか馬鹿にされているような気もするんだけど」
僕の言葉にニヤッとデュークは笑う。
ああ、もう、知ってるよ。デュークはこんな性格のやつだ。寡黙でカッコいいクール王子なんかじゃない。
「ずっとアリシアの魔力で守られていたんだ。まぁ、彼女は無意識だろうけどな」
デュークは遠くを見つめながら静かにそう言った。




