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僕がここに来るのはこの二年間で今日が五回目だった。
それも最初の一年に四回だけ行った。じっちゃんとレベッカに会うために。
アリシアの事もちゃんと説明した。二年間はここに来られないと。
二人とも驚いていたが、すぐに理解してくれた。
一年ぶりにここに立つ。相変わらず霧が大きな壁を作っている。
貧困村は僕にとっては地獄だ。
アリシアは僕の表情を読み取ったのか、軽く僕の頭を二回優しく叩いた。男前な行動だ。
僕とアリシアは一緒に霧を抜けた。
悲惨な村人達の状況が嫌でも視界に入ってくる。
一見、前より少しましになっているように見えた。
じっちゃんとレベッカが何かしたのか?
一瞬で僕達に視線が集まった。鋭く尖った視線が僕達に刺さる。
これは、まずい。アリシアが襲われる……。
僕はアリシアの方に目をやった。
アリシアは臆する事なく毅然とした態度で真っすぐ彼らを見ている。
……ああ、アリシアはそういう人だった。
「どうしたの?」
遠くで聞き覚えのある声がした。
周りの人達が道を空けた。
出てきたのは見覚えのある顔だった。
最後に会った時よりも随分身長が高くなっている気がした。
薄茶色の瞳が僕達を見て大きく見開いた。
長い銀色の髪を一つに束ねて仁王立ちで僕達を見ている。
「アリ……シア?」
レベッカの後ろにはじっちゃんがいた。
なんだかじっちゃんがこの村のリーダーみたいだ。
僕が来ていなかった一年間で一体何があったのだろう。
というより僕は夜にしか貧困村には来た事がなかったから、この二年間で何かが変わったのか?
「久しぶり、レベッカ」
そう言ってアリシアは優しく口角を上げた。
……やっぱり、悪女っぽくなくなっている。
なんで今日はそんなにも穏やかな表情を浮かべているのだろう。
皆の視線がアリシアに集中する。
そして、多くの者がアリシアの美しさに息を呑む。
客観的に見たらこの村を救いに来た聖女みたいだ。
聖女なんてアリシアには口が裂けても言えないけど。
アリシアはこの村を救おうなんて全く考えていないはずだ。
「凄く綺麗になったね」
レベッカはアリシアをじっと見たままそう言った。
「そう? 有難う」
アリシアは素直にお礼を言った。
綺麗なんて言われて有難うって返す人はこの国では珍しい。
そんな事を言ったら嫌われるからだ。
今までアリシアはわざとそうやって返してきた。
悪女としては自分の美を知っておかないといけないわ、謙遜なんてしないのよって。
けど、今のアリシアの有難うはどこか貫禄がある。
「アリシア」
そう言ってじっちゃんがレベッカの横に並んだ。
じっちゃんはいつも姿勢が良く、威厳に満ちていた。
白髪だけど皺はあんまりないし、目がなくても顔が整っている事が分かる。
賢く優しい彼は僕の憧れの人だ。
「ウィルおじいさん!」
アリシアは嬉しそうに声を上げた。
じっちゃんの前だとアリシアは少女の顔をしている気がする。
よっぽど慕っているのだろう。
「元気そうじゃな」
じっちゃんが顔を綻ばせる。
アリシアはじっちゃんに近づき、ぎゅっと抱きしめた。
じっちゃんは一瞬固まったがすぐにアリシアの頭を優しく撫でた。
……アリシアが今日は悪女っぽくないのってじっちゃんに会えるのを楽しみにしていたから、とか?
彼らの関係はつい嫉妬してしまいそうなぐらい強い絆で結ばれているように見える。
僕の方がじっちゃんと過ごした時間は長いはずなのに、アリシアとじっちゃんの方が深い絆で結ばれている。
じっちゃんは僕が出会った中で一番賢い人物だ。
だから……あの時は驚いた。
「ウィルおじいさん、少し屈んで頂けますか?」
アリシアがそう言うと、じっちゃんは不思議な顔をしながら言われた通りに屈んだ。
僕達は黙ってその様子を見ていた。
アリシアはじっちゃんの目元に口を近づけた。
何をしようとしているんだ。
すると、いきなり聞き取れない呪文を唱えだした。
聞いた事のない言葉だ。まるで歌を歌うように唱えている。
小さな明るい光がふわりと漂い始めた。
……これは多分、デュルキス国の古語。
この意味が分かる人なんてこの世にはもういないはずだ。
いるとしてもほんの数名だけだ。
まずあの文字を解読する事が出来ない。
僕も一度、デュルキス国の古語で書かれた本を読んだ事があるが、全く理解できなかった。
あの古語を習得するのには数十年かかると言われている。
なのにどうして彼女は習得しているんだ。
……もしかしてこの魔法が使えるようになるために?
彼女の澄んだ声が静寂の村に響き渡る。
煌めいた白い光はゆっくりとじっちゃんとアリシアを包んだ。
なんて眩しい光なんだ。目を開けていられない。
レベル100を習得していたとしても古語を使う魔法を使える者はいないと思っていた。
光はどんどん明るさを増し大きくなっていく、僕は目を瞑った。
目を瞑っても光が目を刺激している。
強烈な光が一瞬僕の目を襲ったが、すぐにその刺激は消えた。
それと同時にアリシアの声も聞こえなくなっていた。
僕はゆっくり瞼を開いた。
……やっぱり、この魔法だったんだ。
なんとなく気付いてはいたけど僕は全身に鳥肌が立った。
この村の人たちも瞠目して固まっている。
口を大きく開けたまま固まっている人もいる。
レベッカは体をぶるっと震わせて狂気的な笑みを浮かべた。
「凄い……」
レベッカは目を見開きながら小さく呟いた。
確かに、誰もが目を疑う。
アリシアの左目から黒い煙みたいなものがもくもくと揺られながら出ている。
そして、じっちゃんの左目には光輝く黄金の瞳があった。