結晶
女とは強いものだ。
そう思わされる時は短い人生でも往々にしてあった。そしてその時が恐らく今なのであろうと、感慨深げに自身の危局を客観視している時点で、いくらか私も肝が据わっているのかもしれない。
場所はどこにでもあるような寂れた喫茶店の一角であった。
取引相手の女とは木製の円卓を挟んでお互いを睥睨する形で席を共にしている。店内はその外装と違わず洋装風にアレンジされた照明器具類がただぼんやりと客の少ない店内を照らしていた。視線をずらせば中年の男性客が数人、何事かを考えながら紫煙をふかしているのが見受けられる。
「――そんな紙切れではわたくしの意思は曲げれないと言っているのですわ」
ふいに掛けられた言葉に私は意識の深層から舞い戻った。
そして、今いちど現状の把握から入り、女の言葉に思考を巡らす。
――そうだ。私は今は目の前にいるこの女との取引の最中であったのだ。
私はとりあえずの状況確認を済ませた後、崩れかけた笑みを再び顔に貼り付け、瞬時に商談用の思考に切り替えた。
「これは失礼を。私もまだまだ精進が足りないようだ。たしかにこのような額ではあなたのご慧眼に適うはずもありません。了解いたしました。無礼を承知でこの倍を出させていただけないだろうか」
流れるような商談の煽動に、相手の一考を挟む余地すら与えない手捌きは、私の中でも誇れる技術のうちの一つである。数え切れぬほどの場をこなしてきた者にだけなせる商談の奥義でもある。
もっと言えば、この奥義こそが私を荒れ狂う社会のうねりから生き残らせてきたと言っても過言ではない。
私は木製の円卓に上げられたジェラルミンケースに女が一瞥を投じたのを確認し、この取引の勝利を確信した。
が――
「ですから、わたくしの申しているのは金額うんぬんの話ではありません。そもそもこの結晶に価値を付けること自体、無礼千万ですわ」
まただ。
私は女の発言に目眩を覚えるの必死で堪えた。
この女は眼前に積まれた札束にはいっさいの興味がないとでも言いたげな眼をしている。
なぜだ。なぜこの女はこんなにも私の心を揺らがせるのだ。
今まで如何なる商談においても、平然を貫き通してきた私を動揺させる相手に、私は恐怖すら感じずにはいられなかった。
――金では通じない相手。
女はいったい何を求めているというのか。
私は堪えきれず、答えに窮する児童のように女に縋ろうとする。
が、しかし、周りの客達が私達の会話に聞き耳を立て心中で嘲笑しているかのようなそんな錯覚を犯し、咄嗟に口から出掛かった言葉を飲み込んだ。
「聞いていますの?この結晶をあなたに奪われる気は毛頭ない、私はそう言っているのですわ」
結晶。女の口から出たその言葉に私は後悔の念を感じた。
なんて危険な取引に手を出してしまったのだろう。私の胸を後悔という二文字が強く締め付ける。
「そもそもあなたはこの結晶をなんだとお思いで?」
ことさら強調する女の結晶という言葉が私を悩ませる。
結晶。社会一般ないし文学界では人はそれを結晶または「愛の結晶」とも例える。男女の営みによってのみ創られる神聖なる結晶。
「わたくしは一人でもこの結晶を育てていくつもりです。あなたの汚い手切れ金など必要ありません」
最後に女はそう言い残すと、たしかな足取りで店を後にした。
私はしばらくの間、呆然と自失の念に駆られていたが、ふいと糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
――女とは強いものだ。
今回の取引は私にそう思わせるだけの重さを内包していた。
一夜限りの女との間に出来た新たな生命に、まさか私がこれまでに感ぜられるとは、ものの数分前までは思いも至らなかったであろう。
私はそこまで考えたあと、ふとある疑問にさしあたった。
果たして私からの愛情が注がれていない生命を愛の結晶と呼んで適切なのかということに。