眼鏡をかける ⑦
さてと、放課後です。部活の時間です。
え? 授業? そんなの寝てたから覚えてない!
だって今朝はいつもより早いペースで走って疲れたし。それに休み時間は休み時間でクラスメイトからネスキーとの関係について質問されまくって疲れたし……はぁ、やっぱりネスキーに誤解を解いてもらうのは失敗だったか。全然解けてないし、むしろ噂が広まってるし。
とか考えながら私が準備体操をしていると、
「今日は大変だったねぇー」
などと言いながら佳奈が姿を現した。
「そういう佳奈も私に質問攻めしてきたじゃん……ま、いいけど。そんなことよりほら、柔軟手伝って」
「おっけー」
軽く返事しながら、佳奈が地面に足を開いて座る私の背中を押す。
「で、結局どういう関係なわけ? 彼氏でもなければ告白されたわけでもないんでしょ?」
「だからただの知り合いって言ってるじゃん……これ以上聞くならいい加減あんたとの腐れきった縁切り落とすぞ」
「里美との縁は腐りきって納豆みたいにねばねばに絡みついてるから切れないよ」
気持ち悪いなおい。ていうか納豆は腐ってるわけじゃなくて発酵だっての。いや一緒なのか? よくわからん。
「あとで心のシャワー浴びなきゃ」
「そしたらまた納豆かける」
それは勘弁願いたい……
「それにしても、ネスキー君ほんとにマネージャーやるとは……よっぽど里美のこと好きなんだ」
「だからそういうのじゃないって」
ネスキーは私を諦めてくれていないのか、昨日と同じようにマネージャーとして部活に来ていた。今は他のマネージャーと一緒に飲み物を準備している最中だろう。私としては早く他の誰かに狙いを変えて欲しいところだ。
「ふーん、じゃあさ、今度三人で遊びに行こうよ」
なんでそうなる。
「なんでそんないきなり……」
「いいじゃんいいじゃん。私もネスキー君とお近づきになりたいしさ」
「だったら二人で遊んできなよ」
「間が持たなそう」
リアルだな。
でも、もし二人で遊びに行ったとして、ネスキーが佳奈にあの眼鏡をかけて欲しいとか言い出したら厄介だなぁ……佳奈だったらあっさりかけちゃいそうだし。佳奈には危ないことはして欲しくない。それは親友として当然の想いだ。
「わかった。だからもうこれ以上あいつと私の関係について聞かないでね」
こう言えば佳奈ももう色々しつこく聞いてこないだろう。
「やった! 早速今度の週末にでも出かけようよ!」
なんか面倒な用事が入っちゃったなぁ。
私は週末の予定に憂鬱になりつつ、佳奈と交代して柔軟を手伝う。そうしてお互い柔軟が終わると、いつも通りグラウンドを走り始めた。
そしてこれまたいつも通り途中でバテた佳奈を置き去りにし、一人で三周目を終える。
今日はすでに飲み物が準備されており、みんなから押し出されるようにしてネスキーが飲み物を渡しに来た。
「ど、どうしたみんな、お、押さないでくれ……ん? ああ、里見か。ほら、飲み物だ」
なんだか部員やマネージャーのみんなが、「ネスキー君頑張って!」みたいな目で見守っている。そういえば陸上部にはここしばらく恋愛沙汰が皆無だったのでみんな楽しんでいるんだろう。
みんなの視線のせいでなんだかぎくしゃくしながらネスキーから飲み物を受け取り、飲んだ。
「ありがと」
「どうした? 頬が少し赤いぞ? 今日も体調が――エンジェッ!」
思わず飲み物を投げつける私。
「走って体温が上がっただけだっての!」
ていうか前から気になってたけどなんだその叫び声。
急に飲み物の容器を投げつけられてしりもちをついたネスキーに部員やマネージャーたちが「ああ、諦めないでネスキー君!」みたいな視線を送っている。
なんでもうこんなに馴染んでるんだこいつ。
ああもう、と軽く憤慨しながら背を向けると、視力2.0の私の目に、何かおかしなものが映った。そしてそれと同時に、ピシリ、と何かにひびが入るような音が聞こえる。
グラウンドの中央、後輩が棒高跳び用のマットを用意しているその真上に、まるでそこだけ絵画だったかのように、空間に亀裂が入っていた。
自分の目に映るものが何なのか分からず目を凝らす。
すると、再び子気味のいい音と共に、その亀裂が大きくなる。私の直感が訴えかけていた。
何か、危ないものが来ると。
不審げに後輩が自分たちの真上に位置する亀裂に目を向けた時。
バリン! という大きな音と共に空間に穴が開き、それを見たネスキーの叫び声がグラウンドに響いた。
「危ない! そこから逃げるんだ!」
次の瞬間、まるで電車がすぐ近くを通った時のような轟音――いや、獣の叫び声が聞こえた。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!!!」
そのあまりの迫力に全身の毛が逆立つ。
そして、大きく空いた穴から、真っ黒な毛におおわれた太い腕が姿を現し。私の後輩の首を掴み、不気味な音を立てた。
グラウンドの中央から端まで響いたその音が、人間の首が折れる音だと気付いたのは、二人目の後輩の首が折られてからだった。
その場にいたみんなが棒立ちで固まる。
「みんな! 校舎に避難を!」
ネスキーの声で我に返ったみんなが恐怖の叫び声を上げ、校舎に向かって走りだした。謎の腕に首の骨を折られた後輩と仲の良かった子が、私のすぐ後ろでその場に崩れ落ちていた。
一体何が起こった? 突如グラウンドの中央に穴が開いて、そこから出てきた手が、私の後輩の首をへし折って……殺した?
死、そのことが頭に思い浮かんだ瞬間、驚きで硬直していた足が震えだす。
怖いのに、逃げたいのに、足が動かない。それ以外も、首すら動かない。
そしてその恐怖の根源は、すぐにその姿を現した。
亀裂が轟音と共に大きく広がり、グラウンドの中央に怪物がその姿を現す。
大木のように太い腕。テレビで活躍するプロレスラーの十倍はあろうかという巨体。そしてそれを支えるのは樋爪の付いた巨大な足だ。頭には禍々しい角を生やし、その姿はゲームに出てくるミノタウロスとかいう化け物そのものだった。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!」
天に向かって吠えたあと、地面に横たわる二つの死体を見て、そのミノタウロスは驚くべきことに、笑った。
私はその、この世の悪を体現したような表情を見て悟った。
悪魔だ。
かろうじて動いた首は隣のネスキーに向けられる。かすれた声が出た。
「これが、あんたの言ってた……悪魔? ね、ねぇ……どうするの……?」
「そうだ。あれが悪魔だ……俺がおとりになる。君はその子を連れて早く校舎に避難を」
友達を殺され呆然としている後輩を指さしネスキーが言う。
私の直感が告げた。いや、直感ではない。イメージだ。これは恐怖で埋め尽くされそうな私の心が生み出す明確なイメージ。あれからは逃げられない。例え校舎に逃げたところであいつは追いかけてきてみんなを殺すのだ。
「ひ、避難って……あんた、あれ……た、倒せるわけ?」
「すまないが、俺は天使だ……何かに攻撃を加えることなどできない……たとえそれが悪魔であっても」
やっぱり……おとりになったネスキーが殺されて、校舎に現れたあいつが私たちを皆殺しにするんだ。
そんな嫌な想像をしていると、あたりを見回していた悪魔が私たちとは反対方向を見て歩き出した。
恐怖が自分とは反対の方へ歩き出し、思わずほっとしてしまう。自分が狙われなかったということに、思わず安堵してしまう。そしてすぐさま思った。
狙われなかった……? じゃあ、あの悪魔は一体何を……?
恐怖が別のものへと変貌する。
悪魔の進むその先にいたのはいつも最初のランニングで遅れている佳奈だった。長距離が苦手でいつも最後に準備運動終える佳奈は一人でグラウンドの反対側にいたのだ。
いつか長距離を走ったあの時のように、佳奈の足はがくがくと震え、生まれたての仔馬のように立てないでいる。
私は思わず叫んでいた。
「佳奈ぁ!」
先ほど首を折られた後輩の姿が脳裏に浮かぶ。
佳奈が、佳奈が……殺される。
震えていたはずの足が反射的に動き出した。
しかし、動き出した体をネスキーが私の腕をつかんで無理やり止める。
「何をしている! 死にたいのか!」
「うるさい! 佳奈が! 佳奈が!」
あんなのに襲われて死にたくなんてない。でも、それよりも……佳奈が殺されるのはもっと嫌だ。
「君まで殺されてしまう!」
振り返って叫んだ。
「はなしてよ! 助けなきゃ!」
「君ではおとりになったところで数秒も持たない! 一緒に殺されてしまう!」
言い合っているうちにも、悪魔は佳奈に近づいている。まるで恐怖におびえる佳奈を見て楽しむように、ゆっくりと。
「あんただって同じなんでしょ!」
「天使の体なら数分は時間を稼げる」
「そんなの同じじゃん! 早くはなしてよ! じゃないと佳奈が殺される!」
「君まで殺されたら意味がないと言っているんだ!」
うるさい、そんなの知ったことか。早くその手をはなしてよ。
「だったらあんたがあの化け物を倒してよ! 力がある癖に! 攻撃性の欠如!? 目の前の人間救えなくて何が天使よ!」
力がある癖になんでそれを振るわない? なんでそんなにつらそうな顔をする? つらいなら、天使の力であいつを倒してくれればいいのに。
はたと気づく。
ああ、でもそれは私も同じか。
「…………」
だったら。
「もういい。あんたができないなら私がやる。あの眼鏡、あれをかければあの化け物を倒せるんでしょ?」
ネスキーが驚きの表情を見せる。
「世界がどうなろうが知らないのではなかったのか? 君は、はっきり嫌だと言った。やりたいことがあるから、寄り道してる暇なんてない……俺は、その言葉を聞いて、世界のためなら個を捨てることは当たり前だと考えていた己の身勝手さに気付いたからこそ――」
「うるさい! 黙って! ああそうだよ! 世界なんてどうでもいい!」
こんな時にうだうだ言ってるんじゃないこのポンコツ天使。
「そんなことより私は親友を助けたいの!」
そのためだったら――
「――そのためだったら私は眼鏡でも命でもなんでもかけてやる!」
迷いに満ちていたネスキーの瞳に力がこもる。
そして、どこからともなくあの眼鏡を取り出したネスキーは私にそれを手渡し、
「いいか、それをかけると契約が始まる。君が私の天使の力を使うために必要な契約だ。それが終わるまでの時間は俺が稼ごう。使い方は全て眼鏡のレンズ部分に表示される。それに従えばいい!」
ネスキーは口早にそう言うと。悪魔めがけて駆け出した。
私は言われた通り眼鏡をかける。すると、生まれて初めてかけた眼鏡のレンズに、文字が表示された。
『契約を開始します。しばらくお待ちください』
パソコンのアプリをダウンロードするように、視界にゲージが表示される。
一方、向こうでは佳奈と悪魔の間にネスキーが一瞬で割って入っていた。
そしてすぐにあの荘厳で美しい翼を出現させる。
眼鏡のレンズにその様子がアップで表示された。音声まで聞こえてくる。表示されたゲージを見ると、契約はまだ完了していないようだが、徐々にこの眼鏡の機能みたいなものが使えるようになっているのだろう。
巨大な翼を出現させたネスキーを見て、佳奈がぽつりとつぶやく。
「……天使?」
対して、悪魔が低い声で言った。
「なんだお前、天使か。虫一匹殺せないクズ種族が」
悪魔って喋れるんだ。などとどうでもいいことを思ってしまう。
「だが、何かを守ることはできる」
「無理に決まってんだろうが!」
悪魔はそう叫び、巨大な拳を振り上げて無造作に振り下ろした。しかし、ネスキーはあろうことか悪魔に背を向け言い放つ。
「天界流護神術てんかいりゅうごしんじゅつ! 天ノ羽衣あまのはごろも!」
ごしんじゅつ? もしかして天界ならではの、その身を守るための体術みたいなのがあるのだろうか?
そう、私がにわかに期待してその様子を見守っていると。
ネスキーはその大きな翼で佳奈を包み込むように覆いかぶさった。
ガラ空きの背中に、悪魔の拳が襲い掛かる。
「エンジェエエエエエ!」
見事に左翼の付け根辺りにクリーンヒット。
続けざまに悪魔のもう片方の拳が振り下ろされる。今度は右翼の中ほどにクリーンヒットした。
「エンジェエエエエ!!!!」
サンドバックじゃん!
ドカッ! バキッ! と悪魔が容赦なくネスキーの羽や背中に攻撃を加える。そのたびにネスキーは叫び声を上げ、白い羽が美しく宙を舞った。そしてドーム状になっている翼の内部から、佳奈の声が聞こえる。
「ネスキー君! 大丈夫!? ネスキー君!」
佳奈、待っててね。そこの盾に変わって、矛である私が助けに行くから。
ベキッ! と、ネスキーの背中から嫌な音が聞こえた時、ようやく契約が完了した。
そして、視界に文字が表示される。
『力を使う際は表示されるパスワードを声に出し、天身を行ってください』
天身? なんかよくわかんないけど、きっとこれで天使の力とやらを使えるのだろう。
私は今にも翼がもがれそうなネスキーのもとへ駆け出しながら、言われた通り表示されたパスワードを叫んだ。
「――私が天使だ!」
次の瞬間、駆け出した私の足が人間の限界を超えて動き出す。
体中に力がみなぎるのを感じて、私は確信した――あいつをブッ飛ばせる!
そしてその勢いのまま、ネスキーをボコボコに殴っている悪魔めがけて、昔お兄ちゃんから借りて読んだヤンキー漫画のように飛び蹴りをかました。
「ウゴアアア!」
背面から私の跳び蹴りをもろに受けた悪魔が信じられない勢いで吹っ飛び、フェンスに直撃する。
嘘みたいに体が軽い。今なら自分の理想通り――いや、それ以上の動きができる確信があった。
ネスキーは私を見ると、安心したようにその場に倒れこみ、翼を消した。光の破片となった翼の向こうから、泣きじゃくる佳奈が姿を現す。
「ネスキー君、ネスキー君……」
名前を呼ばれるネスキーは大丈夫だと言わんばかりに親指を立てると、吐血しながら私に言った。
「契約、完了したようだな。あとは君の好きにやるといい。君が心で念じれば、その眼鏡がなんだって叶えてくれる」
そうなんだ……じゃあ、手始めに。
私は心の中でネスキーの傷がいえるように念じると、突如ネスキーの体がぼんやりと発光した。よく分からないが、きっと不思議な力で治療しているのだろう。
「やはり……君を選んでよかった」
ネスキーはすっかり回復したのか、立ち上がると、泣きじゃくる佳奈の頭をなでた。
「馬渡さん、安心してくれ。もう大丈夫だ」
「ネスキー君……良かった……死んじゃうかと……」
「ほんと、完全にサンドバックで死ぬんじゃないかと思った」
軽い冗談を交えてそう言うと、ネスキーは不敵に微笑む。
「言っただろ。君がもしその眼鏡をかけてくれるなら、俺は代わりにこの命をかけると」
私たちがお互いにそう言って笑い合っていると、佳奈が不思議そうな顔で私の方を見た。
「里美……なの?」
ああ、眼鏡かけてるから分かりにくかったのか。
「うん。私だよ」
「そっか……綺麗、その服。まるで、天使みたい」
へ? 服? 私は今、部活用の練習着を着ているはずだが……って、え?
私は慌ててレンズに自分の全身像を表示する。
なんと、私の衣服は全身純白のワンピースになっていた。スカート部分の裾には美しいレースやフリルがふんだんに使用されており、服自体は全身真っ白のはずなのに、ところどころに凹凸や刺繍を入れることによって光の加減で模様が浮き出るようになっている。
私が自分の姿に戸惑っていると、フェンスにめり込んでいた悪魔が雄たけびを上げた。
「グオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!」
衣服が変わっていることについて色々と言いたいことがあるが、そんな暇はないようだ。
ミノタウロスのような悪魔は首をゴキゴキとならすと、獰猛な瞳でこちらを見てくる。
それを見て佳奈がおびえる。
無理もない。目の前で人間を二人も殺した化け物が襲い掛かってこようとしているのだ。
しかし私はというと、どういうわけか全く怖くなかった。先ほどまで怖がっていたのが嘘のように、悪魔をまっすぐと見据えることができる。
体中に力がみなぎっている。今ならあの巨体が突進してきたところで、正面から受け止めてなぎ倒せそうだ。
「そ、そうだ……里美、逃げなきゃ」
未だに足が震えて立てない佳奈が、不安そうに私のワンピースの裾を握る。私はそんな親友を安心させるように、悪魔に背を向け、その手を握って言った。
「大丈夫だよ佳奈。今度は私が助けるから」
安心させるように微笑みかけ、佳奈の手を離して悪魔の方を向く。
悪魔は角を突き出し、突進してきた。私はその角を真正面からつかみ、乱雑に投げ飛ばす。
そのとき、視界にグラウンドで無残に横たわる後輩の死体と、それに泣きついている後輩の姿が目に映った。泣きついているのはもちろん先ほど一人だけ校舎に避難していなかった後輩である。相当仲が良かったのだろう。私と悪魔との戦いなどには目もくれず死体を抱きしめている。
私は別に人間ができている方ではない。女の子にしては乱暴だし、思ったことはすぐ口に出すし、人付き合いが上手とは言えないし、自分の練習ばっかりで後輩の面倒なんて見たことない。だから、死んでしまった後輩の名前くらいは憶えていても、ほとんど話したことはないし、仲が良かったとはとても言えない。
でも……それでも、泣きながら二つの死体を抱きかかえる後輩を見ていると、やはり心に来るものがあった。
悪魔が起き上る。
怒りのまなざしでこちらを見ている。
なんであいつが怒ってる?
怒りたいのは、こっちだ。
「絶対に、許さない」
今度はこちらから走り出す。
ネスキーがサンドバックになっていたときのことを思い出す。私の今の身体能力ならあんな遅い攻撃、簡単によけられるだろう。それが分かるのは、ひとえに眼鏡から伝わってくるエネルギーと、そこからくる確固たる勝利のイメージのおかげだ。
どんな攻撃が来てもよけられる。そう思っていた矢先、しかし悪魔は狡猾だった。
悪魔は私が近づいてきた瞬間、私ではなく地面を殴りつけたのだ。グラウンドが揺れ、悪魔の巨大な拳が振り下ろされた位置から、膨大な土煙が舞う。
視界が奪われた。
予想外の攻撃に思考の空白を作ってしまうと、体の横に衝撃が入った。樋爪の付いた大木のような足が、私の脇腹にめり込んでいる。
それに気付いたのも束の間、私はサッカー選手に蹴られたボールの如くグラウンドの端に置かれていたサッカーゴールのポストに激突した。
普通の人間なら間違いなく死んでいただろう。だが、私の体にダメージはなかった。服に汚れすらついていない。軽い衝撃が体を襲っただけだ。
ぶっちゃけ、負ける気がしなかった。
ただ、一つだけ問題があるとすれば、悪魔の倒し方なんて知らないということだろう。
何事もなかったかのように立ち上がる私を驚愕の表情で見つめる悪魔を見ながら、私はどうすればいいのか考えていると、再び後輩の死体が視界に入った。
同じようにしてやればいい。そう思った。
危険な思想なのかもしれないと思いはしたけど、他に方法など知らない。
そうと決まれば、私の動きは迅速だった。
素早く悪魔の方へ駆け出し、今度は目くらましにも気を付ける。悪魔は馬鹿の一つ覚えみたいに地面を殴ろうとしたが、私はその拳を思いっきり蹴り上げた。
バランスを崩し、悪魔が倒れる。
私はその上にまたがり、両手でその首を掴んだ。
悪魔が苦しそうに暴れ出す。しかし、天使の力を借りた私の握力から逃れることはできない。
そこからだった。私の心に迷いが生じたのは。あろうことか、私は目の前の悪魔を殺すことを躊躇したのである。
苦しそうにもがく化け物の首を、それでも私は、頭の中に殺された二人の後輩や怯える佳奈のことを思い出しながら、力いっぱいへし折った。
動かなくなった悪魔は黒い霧のようなものに姿を変え、風に流れるようにその姿を消した。
私はここでようやく気付く。
私はもう、戻れないところまで来てしまったのだと。
天使の啓示する運命とやらに、つかまってしまったのだと。
ふらりと、土煙の舞うグラウンドで立ち上がる。
悪魔はもういない。危機は去った。その証拠に、私の手のひらにはしっかりとあの太い首をへし折る感覚が残っている。
あたりを見回し、未だ死体を抱きかかえうずくまっている後輩と、ネスキーと共にこちらを見ている佳奈を見つけた。
佳奈の方へ歩いていき、自分でも何故か分からないままに抱きしめる。
佳奈の体が震えていた。きっとまだ恐怖が抜けきっていないのだろう。無理もない、天使の力を授かった私はともかく、佳奈は普通の女の子なんだ。
だから私は、安心させるように言った。
「佳奈、もう大丈夫だよ」
段々と、震えが収まってくる。
佳奈が、優しい声音で言った。
「うん、里美こそ、もう大丈夫だよ」
「ははは、なんで佳奈が私を安心させようとしてるの……」
そうだ。私はあの悪魔を圧倒して、無傷で、全く危なげなく……殺してきたのだ。
そんな、不安がる要素なんて一つもないはずの私に、佳奈は言った。
「だって、里美震えてるじゃん」
「へ? あ、あれ……?」
ああ、ほんとだ……震えてるの、佳奈じゃなくて私だ。
佳奈から体を離し、震える手のひらを見つめる私を、佳奈が抱きしめ返す。
「ありがとう、里美……もう大丈夫だよ。佳奈のおかげで、助かった。本当に、ありがとう」
そうだ。私は佳奈を助けんたんだ。何も悔やむことなんてないし、何も恐れることなんてない。不安になることなんてないんだ。だから、だから……泣くことなんてないのに。
「ほら、メガネ外して。涙拭かなきゃ」
「……うん」
私、なんで泣いてるんだろ。
眼鏡を外すと、私の身を包んでいた白い衣はふっと光の球になって消え、もとの服装に戻った。
天使じゃなくなった私の涙を、佳奈が拭いてくれる。
「里美、ありがとう。助けてくれて、ありがとう」
佳奈はまるで私を安心させるようにそう言いながら、ぽろぽろとこぼれる私の涙を受け止めてくれた。
だめだ、これじゃ何も変わってない。
佳奈に助けてもらっていたあの頃から――なにも変わってない。