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眼鏡をかける ⑥

 翌朝、私はいつも通り早朝ランニングに出かけようと、まだ薄暗い家の外へと足を踏み出した。すると、庭の芝生で似合わないジャージを着た天使がストレッチをしているではないか。

「なにしてんの?」

 無視するという手もあったけど、不誠実な気がして躊躇われた。何が不誠実かというと、なんとなく、ネスキーは私を待っていたように思ったのだ。まったく根拠はなく、ともすれば自惚れもいいとこだけど、どうやら私の予想は当たっていたようで、ネスキーは、

「おお、きたか」

 と言ってこちらを振り向く。

 まあ、女の勘は当たるってことで。

 ざまぁみろ、足の速さをねたんで男女おとこおんなとか言ってきた男子。私は女だ。

「で、なにやってんの?」

 ストレッチだ、なんて馬鹿正直に返してくるかと思ったけど、ネスキーも段々日本人の会話を身につけてきたようで、

「君の早朝ランニングについて行こうと思ってな」

「ふーん、まあいいけど」

 ちょうど、一緒に走る相手が欲しかったところだ。前はよくお兄ちゃんと一緒に走っていたけど、お兄ちゃんが陸上を辞めてからというもの、ずっと一人で走っている。

「じゃあ、行くか。安心しろ。ペースは君に合わせる」

 ネスキーの口調に皮肉は一切混じっていない。純粋に、心の底から自分の方が早いと思っているのだろう。それは事実だけど、無性にムカつく。

 私はネスキーのその言葉を無視し、いつもより早いペースで走り出した。

「おお、やる気満々だな」

「うっさい」

 私の冷たい言葉に、先ほどまでキラキラしていたネスキーの瞳が、猛獣を前にした小動物のような瞳に変わった。

 いや、怖がり過ぎでしょ。

 走っている間、会話をすることはなかった。私は呼吸のペースを乱さないようにしていたし、ネスキーもまたそれに合わせてくれているのか、何かを喋ることはなかった。ただ私の隣を涼しい顔で走っている。

 人がほとんどいない早朝の整然としたオフィス街に二人の規則正しい呼吸が刻まれてゆく。私はこの、誰かと走るときの感覚がたまらなく好きだった。お互いの呼吸が溶け合うような、妙な一体感が生まれるのだ。

 やがて、いつもより早く折り返し地点へと到着する。

 今日はいつもよりペースを上げていたので、正直疲れた。ちょっと飲み物でも買って休憩したい。私がそう思ってネスキーの方をちらっと見ると、天使であるネスキーは汗一つかかず涼しい顔で私の方を見ていた。

 分かってはいたけど、なんか悔しい。

「疲れているようだな。そこの自動販売機で飲み物でも買って休憩するか?」

 なんか見透かされてるようで嫌だけど、ここで意地を張るような私じゃない。スポーツマンならぬスポーツウーマンたるもの自己管理は大事だ。

 それでも思わずむすっとしながら、

「……休憩、する」

 そう言った。

 ネスキーは軽くうなずくと、あたりを見渡し、公園のベンチを指さした。

「じゃあ、あそこで休憩していてくれ。飲み物は何がいい?」

 当然のように飲み物を買ってきてくれるあたり、流石は善意の塊か。ここは、お言葉に甘えておこう。

「スポドリならなんでもいいよ……ありがと」

「例には及ばん……それに、昨晩はすまなかった」

 なんであんたが謝んの……なんて言葉を私が放つ前に、ネスキーはさっさと自動販売機のほうへ走って行った。

 自分勝手な理由で世界の危機を救うという大事な役目を断ったのは私で、ネスキーは善意で人間を助けに来たのだろうということは、私にだって分かっている。それでも、私は責められる筋合いはないと思っているけど、同時にちょっとした良心の呵責もあるのだった。

 それをあの天使は見抜いているのだろうか? あの謝罪は、私がほんの少しでも心を苦しめたことに対しての謝罪なんだろうか? だとしたら、余計に申し訳なくなるからやめて欲しい。それで私が心変わりするということは絶対にありえないけど、だからこそ私の中途半端な善意が苦しんでしまう。

 私がそんな風に考えていると、ネスキーはスポドリ片手に戻ってきた。一本しか持っていない。

「……あんたのぶんは?」

「俺はいらない」

 私のためだけに買ってきたのか。ちくしょう、いいやつだな。

「ありがと」

 短くお礼を言い、スポドリを受け取る。キャップを開け、一息に半分くらいまで飲む。汗で流れ落ちた塩分や水分が体中に染み渡っていくのを感じた。うん、この感覚、癖になる。

 ネスキーはスポドリをおいしそうに飲む私を何が嬉しいのか微笑みながら見つめている。私はその視線がこそばゆくて、それを逸らさせるように指をさした。

「あのビル見える?」

 他のビルよりひときわ高いオフィスビル。一体何枚のガラスが使われているのか、朝日を浴びている面がきらきらと輝いていた。お父さんの会社だ。

「あの一番大きなビルか?」

「うん。あれさ、お父さんのなんだ」

 ネスキーに驚いた様子はなく、ただまっすぐにそのビルを見据えていた。

 その、見たものをありのままに映す鏡のような瞳を見て、私はふと思った。

 天使であるネスキーが私の夢を聞いたらどんな反応をするんだろう?

 思ったことは、あっさりと口に出る。もとから考えてから行動するような質でもない。

「私ね、あれを跳び越えるのが夢なの」

 ネスキーは私の言葉を聞いて、ゆっくりこちらを向くと、自然な笑みで言った。

「それは、気持ちよさそうだな」

 なんだか、欲しかった言葉をもらえたような気がして、言葉に詰まる。心臓が、締め付けられるようだ。

 その緊張を解きほぐすように、ネスキーは真剣な顔になり言う。

「だがもし、君があのビルを跳び越えたところで、人間の体では着地の衝撃に耐えきれず死んでしまうだろう?」

 天使ならではなのだろうか。とにかく、そのバカみたいに真面目な言葉に、私は思わず頬を緩めてしまう。

「それでも、いいかなって……うん、あのビルを跳び越えられるなら私、死んだっていい」

 多分、それくらいに気持ちがいいはずだ。未だ見たこともない悪魔なんて知ったことではない。そんなことより私は、あの天高くそびえるビルを飛び越してやりたい。

「安心しろ。そのときは俺が受け止めてやる。この前とは逆にな」

 なんだか、子供同士で将来結婚しようといっているような、そんな感じがして、私は思わず照れてしまう。

 だからぶっきらぼうに言った。

「それよりふんわりと落下する方法教えてよ」

 生真面目なネスキーは真顔で返す。

「あれは天使にしかできん」

「……じゃあ、しょうがないか」

 なんでだろう、私は今更、ああ、こいつは本当に天使なんだなぁ……って、そう思ったのだった。

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