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眼鏡をかける ①

 それは暑い夏の日だった。

 いや、早朝だからほんとはそんなに暑くはないんだけど。そもそも陸上部で毎日ギラギラの太陽に喧嘩を売っている私は熱さなんて気にならないほどに鍛えられているわけだけど……とにかく、私があいつに出会ったのは――あの天使を名乗る変態に出会ったのは――熱く燃え上がるような夏の日だった。

 私こと興梠里美(こおろぎさとみ)は陸上部のエースにして学園のマドンナ……とまではいかないけど、陸上部のエースであることは本当だ。二年生にしてエース。それゆえに運動神経にはかなりの自信がある。

 髪型は肩にかからないくらいのセミロングといういたって普通の髪型で、目鼻立ちもいたって普通だと思っている。周りからすれば普通に可愛いのが腹立つとのことらしいが、まぁそれは仲のいい友達の冗談として受け止めておこう。しかし自分で言うのもなんだけど、色恋沙汰には疎く、そんなことより陸上を頑張りたい体育会系の女の子である。

 さて、陸上競技で走り幅跳びをしている私にとって、助走というのは――つまり前置きというのは大事なものなのかもしれないけど、人間だれしも助走なしで飛び立ちたいときだってあるはずだ。

 ってなわけで、助走をつけるのはこれくらいにして、ついでにインテリっぽくもってまわった言い方で格好をつけるのもこれくらいにして、語ろう。

 ときに長距離走のようにペースを意識して、時に短距離走のようにがむしゃらに、そして走り幅跳びのように飛躍しつつ、語ろうではないか――体育会系なのに眼鏡をかけた私と、天使なのに命をかけたあの男の物語を。



「はっ……はっ……はっ……」

 早朝で人通りの少ない丸ノ内のビルの隙間を、私はリズムよく呼吸を刻みながら走る。ビルの隙間と言っても、小汚い路地裏のようなものを想像しないでほしい。行ったことがある人は分かると思うけど、丸ノ内のオフィス街は高いビルが大きな道路を挟んで規則正しく立ち並び、美しい街並みを形成しているのだ。

 そんな美しい道路の上を、早朝の澄んだ空気の中走るのが私の日課だ。もっとも、今日は生憎の曇り空でそんなに晴れやかではないけれど。

 ペースを落とさずいつもの折り返し地点まで来たところで、私は目印にしているひときわ高いビルを見上げた。

「相変わらずでっかいなー、ちくしょう……いつか跳び越えてやるんだから」

 私が見上げるビルは、お父さん社長を務めるビルであり、お母さんがお父さんと出会ったビルであり、お兄ちゃんが働いているビルだ。私たち家族の象徴だとお父さんは誇らしげに言うけど、実を言うと私はあまり好きではない。

 お父さんは口を開けば会社のことばかりだし、お母さんはそんなお父さんが好きだといつも惚気るし、陸上で誰よりも高く跳び、誰よりも速く走っていたお兄ちゃんはこの会社に入るためすっかりインテリ系に変わってしまった。今はもうあの時のかっこよさなどかけらも残っていない。

 だから、私の夢はいつかこのビルを跳び越えて、父さんたちに目に物見せてやることなのだ。人間の体で高層ビルを飛び越すだなんて荒唐無稽にもほどがあるけど、それでも夢見てしまうのは仕方ない。ここに来るたびにどうしてもイメージしてしまうのだ。あのビルを跳び越える自分の姿を。

 私は決意を新たにし、もと来た道を走って帰ろうと振り返る。

 すると、私の目に天の道が映った。

 というのも、曇っていた空に亀裂が入ったのだ。私が走ってきた道をなぞるように、雲の切れ目から眩しい朝日が降り注いでいる。

 私はあまりの美しさに呆然とした後、自分の立っているところが暗くなったことに気が付いた。よく見ると、雲の切れ目が徐々に閉じ、目の前の光の道がまるで消しゴムで直線をゆっくりとなぞるように消えていっている。

 私は何かに導かれるようにその光の道を走り、消えゆく光と競争した。

 そういえば、光と競争したペガサスって確か下半身がちぎれちゃったんだっけ……

 なんて、昔どこかで聞いたペガサス座の話を思い出しながら走っていると、二百メートルくらい先で光の道が途切れていた。きっとあそこで後ろから追いかけてくる影が合流し、差し込んでいた光の道は消えてしまうのだろう。

 私はそのことをちょっぴり残念に思いながら、雲の切れ間が途切れている位置を目指して走る。

 と、私の目にありえないものが映った。

 ちょうど、私が目指す先、光の射す最終地点に、降り注ぐ光と共に何かが落ちてきている。私は2.0を超える視力でその正体を確かめた。

「……って、え? うそ、人間!?」

 友達からマサイ族と呼ばれたことのある私の目に映ったのは、明らかに人間のシルエットだった。

 人間が、背中から落ちている。

 私はあまりの出来事に冷静さを忘れ、とにかくそこ目指して全速力を出した。走り幅跳びの選手なのに短距離で助っ人として呼ばれる私の両足が高速で回転する。

 後ろをついてきていた雲など取り残して、何ができるというわけでもないだろうに、私は落ちてくる人間らしきなにかに向けて全力疾走したのだ。

「はぁ……はぁ……間に合った……って、なんで間に合ってんの?」

 いやいや、よく考えたら、人間が落ちる速度から考えて追いつけるはずないじゃん。まさか私の足はついに光の速度を超えてしまったのだろうか。ペガサスのごとく。下半身、ついてるよね?

 アホなことを考えながら、私はゆっくりと落下してくる人間らしきものを見上げる。

「紙でできた人形? もしかして誰かが凧を上げてるとか?」

 そうは思うものの、はっきりと人間の形をした何かは、ゆっくりと落下し、私が走ってきた光の道が閉じるのと同時に、私の腕にふわりと受け止められた。

「……って、なんで私は受け止めてるんだろ……」

 しかもなんか超軽いし。

「人形……じゃないよね、それにしてはリアルだし、なんか微妙にあったかいし。見た目は、男か」

 私はお姫様だっこの要領で抱きかかえた男を観察する。

 男はうちの学校の制服をなんだかホストのスーツのように着こなしていた。チャラそうな格好だが、しかしどこか真面目そうな顔立ちだ。高校生にしては大人びている。

「それにしてもすっごいイケメン。うわ、鼻たっかいなー。ハーフ? でもロン毛は好みじゃない」

 私が自分勝手な感想を述べていると、男がカッと目を見開いた。

「うわっ!」

 私は女の子らしく「きゃっ」ということもできず、素で叫んで男を地面に落とす。

「エンジェッ!」

 男は意味不明な叫び声を上げながらアスファルトの地面に激突。

「え、えーっと、大丈夫ですか?」

 あの高さからふわりと私の腕に落下しておいて、なんで今回は無様に落下したのだろう? と疑問に思いつつ、怪我をされていても困るので声をかけてみる。男は平気そうに立ち上がると、身だしなみを整え、きりっとした表情で私の目をまっすぐに見た。

 いや、いくらロン毛は好みじゃないとはいえ、こんな美形に凛々しく見つめられたら……なんなの? もしかして今から少女漫画の主人公? いや、この場合はヒロインだろうか? などと、普段とは全然違う乙女モードの私に、しかし空から舞い降りてきたイケメンはどこからともなく一つの眼鏡を取り出し言った。

「君がもしこの眼鏡をかけてくれるなら、俺は代わりにこの命をかけよう」

「は?」

 女子高生にマジトーンで「は?」と言われた日には大抵の男は心が折れるって前にお兄ちゃんが言ってたなぁ……とか思いながら目の前のイケメン改め不審者を見る。

「……こ、怖い」

 眼鏡を大事そうに抱きかかえてめっちゃ震えてた。

 そこまでビビられるとサバサバ系女子の私も傷ついちゃうんですけど……。

「え、えーっと……つまりどういうことですか?」

 私はなるべく優しい声で、クラスのゆるふわ系乙女をイメージしながら尋ねてみた。すると男は私の精一杯のわるふわオーラに安心したのか、先ほどと同じような凛とした顔で言う。

「君にこの眼鏡をかけて欲しい」

「は?」

「……こ、怖い」

 またやってしまった。

 ていうか何を言っているんだこの男は。新手のナンパだろうか? いやん、私そんなの初めて。困っちゃうわ。

「学校あるんで、それじゃ」

 私はそう言って家へと走る。

 私が心の中で愉快な自演っぷりを見せていると、男は後ろから何やら叫びながら追いかけてきた。

「ま、待ってくれ! 別に個人的な趣味とかそういうわけじゃないんだ! いや、確かにそういう気持ちもないこともないが……とにかく! 地上を悪魔から救うためにも、この眼鏡をかけてくれ!」

 これはやばい、完全に暑さとかで頭がやられている人だ。絶対に関わらないでおこう。

 私はこれ以上の接触を避けるため、ペースを上げて走った。長距離でも助っ人に呼ばれるこの私にあんなロン毛のもやしが追いつけるわけがない、とたかをくくって振り返ると、高速で手足を動かすロン毛のもやしがすぐ後ろにいた。

「ふふふ、残念だが天使の身体能力は人間のそれをはるかにうわまわ――エンジェッ!」

 うわぁ、びっくりし過ぎて渾身の振り向きざま右ストレートうっちゃった。

 いや、でもしょうがないでしょこれは。だって男の人が悪魔とか天使とか眼鏡とか言いながら追いかけてくるんだよ? か弱き乙女なら殴り飛ばしちゃうって。

 ん? か弱き乙女は男を殴り飛ばさない? それはほら、私って体育会系だし。か弱き体育会系女子だし。

 私は再び両足を回転させ、道路であおむけに伸びている男から逃げるように家へと帰った。

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