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第一話

松下は三度の食事よりも

日に六十度の喫煙を愛する男であった。

思春期にみ始めてからというもの

すっかり魅了されしまい

不惑ふわくを過ぎた今では

タバコを吸っていない時間の方が短い。

学内の全面禁煙などどこ吹く風。

彼の研究室は四六時中ヤニが舞い上がり

壁一面がまっ黄色になっている。

彼が科学に取り組む理由は

自然の謎を解き明かすためというのもあるが

タバコ代を稼ぎたいからという方が

どちらかといえば大きい。

専門誌に論文がちょくちょく掲載され

たまに一般紙にも顔を出すので影響力は意外に高い。

彼を慕って受験しに来る学生も少なくないので

大学側も研究室から吹き出る紫煙を

歯噛ゆみして傍観しているしかないのだった。


彼が喫むのは決まって缶入りの両切りタバコで

それを部屋のあちこちに置いて

学生や同僚に気前よく振る舞っている。

彼は身勝手だが強欲ではないのだ。


両切りタバコはフィルターがなく

吸い口にも葉っぱが露出しているから

加減に気をつけないと舌に葉っぱがこびりつく。

おいしく味わうには少しの鍛錬が必要である。


論文の執筆が一段落し

ソファーにふんぞり返って

二十五年以上繰り返してきた動作をしたが上手くいかず

松下はティッシュをすくい取って

葉をぺっ、ぺっ、と吐き出していた。


「今日はなんか調子が悪い

 きっとイヤなことが起きるぞ」


その時、部屋の引き戸を乱暴に開けて

ダブルのスーツを着た老爺が入ってきた。

はげ頭を真っ赤にして怒鳴りはじめる。


「おい松下!おまえの汚いヤニは今日で打ち止めだ!」


「うわあ出た!」


「なにが出ただ!」


闖入ちんにゅうしてきたのは

学長の辺留須へるす しいであった。

倫理一筋四十年の重鎮で

健康被害や環境問題などの

現代の倫理問題に関しては取り分けうるさい。

現在は大学ヘルシーキャンペーンの陣頭指揮をとり

学内の不摂生と自堕落の一掃に傾注している。

松下は立ち上がり姿勢を正した。


「いえいえいやはや、学長閣下がわざわざ

 お見えになるとは思いもよりませんでしから。

 事前に言っていただければ

 おもてなしの準備をいたしましたのに…」


「よくもそんな大嘘を。

 まあいい、我が校が全面禁煙なのは

 当然知っているだろうが

 先ほどの運営会議で

 罰則の強化が決定されたのだ。

 違反したら退学だ!

 教員や職員の場合は解雇だ! 

 即日施行だ!

 どうだまいったか!」


「ややや!それはあまりの仕打ち

 タバコの無い世界なんて

 地獄と変わりがない

 どうかお慈悲を!」


「ならん!今までのらりくらり

 逃げおおせていたようだが

 その悪事も潰える

 正義は必ず勝つのだ!」


「ちょっと待ってくださいよ。

 正義だの悪だのと

 そもそもタバコを吸ってはいけないなんて

 いったい何の根拠があるんです?」


「ハァ、呆れた食い下がりだな。

 ならば説明してやろう。

 いいかね、人は幸福にならねばならぬ。

 幸福になるには健康でなければならぬ。

 ところでタバコは健康を害する。

 幸福追求を阻害するタバコは悪というわけ。

 これ以上わかりやすい根拠はあるまいよ」


「ほほう、タバコは健康を害するからいけないと」


「そういうことだ」


「ならばタバコが健康を害さないとわかれば

 その論理は崩れますなあ」


松下はニヤリと笑った。


「あのねえ、バカ言っちゃいかんよ君

 タバコは統計やら疫学やら

 いろんなデータで体に悪いと既に示されているんだ

 確定した結果に噛みつくのは学者らしくないと思うがね」


「いえいえ、

 別にデータを否定するつもりはありませんぜ。

 私が考えているのはですね、

 健康を害さないタバコを新たに生み出すことです」


「なんだと!

 それこそ気狂きちがい沙汰だ。

 そんなタバコがあるものか」


「ないなら作ればよろしいのです。

 先輩方はみんなそうしてきたでしょう。

 創造を否定するなんて

 それこそ学者らしくないと思いませんか?」


「できるはずが…」


「これより先は論より証拠

 見事こしらえてみせましょう。

 そうすれば喫煙禁止は解除してくださいますな?」


「ふんっ…まあいいだろう。

 そんな夢物語が実現するはずがないからな。

 期間は1年だ。 

 出来なければ君は解雇にするぞ」


「いいでしょう背水の陣だ。

 俄然やる気が出るというもの」


「せいぜい後悔したまえ。

 あきらめて健康になりたいのなら

 いつでも頭を下げに来なさい。

 有機栽培の野菜を分けてやるからな。

 はーはっはっは!」


辺留須学長は高笑いを残して去っていった。


「あのはげじじい

 俺が挫折すると踏んでいるな。

 ふふふ…後悔するのはそっちの方だ。

 タバコを消したつもりなんだろうが

 俺を燃えあがらせてしまったのだから」


その日から松下は時間を忘れて研究に没頭した。

ああでもない、こうでもないと試行錯誤を重ね続けた。

学内外の優秀なニコチン好きの研究者にも協力を要請し

数ヶ月に渡る議論と実験の結果

タバコの味を損なわず、毒性だけを除去する方法の目処がついた。

その後も松下の必死の努力といくつかの幸運が混ざり合い

ついに無害なタバコが完成した。

松下は震える手でジッポーに火を灯し

タバコの先端を炙る。

紫煙が上がる。

松下は深く息を吸い込んだ。

濃厚な味が口いっぱいに広がる。

それを鼻息荒く吐き出す。

測定器が動き出す。


「結果は?」


測定器の数値にはゼロが並んでいた。

ニコチン、タールをはじめ

有害物質は存在していない。

つまり無害であるということが示された。


「出来たっ、試作一号!」


深夜の研究室は喝采に包まれた。

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